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猫にリードを繋いで……

 

 先だって、ポタリングの途中、猫にリードを繋いで散歩している現場に出くわした。話には聞いたことがあったが、実際にかかる馬鹿げた行為を目にしたのは初めてであった。


 当の猫ちゃんはと言えば、取り立ててブランド種でなさそうだし、かなり老いぼれとも見受けられ、大人しく主人のお婆さまのリードに従ってはいたが、見ている方とすれば、些か冷や冷やものでもあった。

 太古より、人間とはその社会性に於て共存してきた犬とは違い、猫の本質は人間に従うというより、その野性を保持したままの気儘さにこそ魅力があったはずである。
 鼠の捕獲という一面もあるが、これとて猟犬のように訓練の結果ではなく、単なる本能的行動であり、いっそその愛くるしさにこそ、愛すべき生き物としての立ち位置があったのだろう。

 加えて、猫の行動というものは前後左右のみならず、上下への移動も野性ならではの特質に違いない。犬が塀の上に飛び乗るなどあまり見かけないが、猫に於ては日常茶飯である。
 とても、リードで制御出来るとは思えない。
 さらに、猫は臆病というか、外敵に対しては保身のためにヒドく敏感な所があって、不意の警笛等に驚くと……上下左右、どこに飛び退くが知れたものではないのだ。

 もとより猫は野性の生き物であり、人間のように言葉を以て自らの苦痛を訴えることは出来ないだろうが……リードで制御を強制された猫を目の当たりに、僕としては、つい、自らの思考に枷をはめられたと仮定してしまった。

 思えば、権力者というものは国民を犬のように扱いだかるものである。自らの都合のよいように飼育訓練を施し、それに従えぬ場合には刑罰を加える。
 人間には確かに、犬的な要素もあって……かかる不都合も、身の安全と捕らえ、おまけに、その代償としてのご褒美さえ期待してしまう場合もあるだろう。

 そう。権力者にとっては、犬的要素の強い国民こそ重宝なのであって……これに従えない猫的な人間を忌み嫌う傾向にある。

 僕が、犬よりも猫を愛する所以である。

 リードに繋がれた猫を見て、冷や冷やだと先に書いたが……実は、いっそ恐怖すら覚えたというのが本心である。
 コトが、猫に限ってというなら、冷や冷やで済むのだろうが……これが「猫的人間」にまで及びはしないか、という懸念なのだ。

 リードに繋がれ、諦め切ったような老猫を目の当たりに……僕はふと、そこに自分を重ねてしまったのだ。

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