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バルテュスの光

 

 昨日、短編小説「幻の少女」をアップしたのだが……その原点とも言える光景を、ちょっと紹介してみよう。


 作品にも出てきた「バルテュス展」でのことながら、たまたまハードディスクの中から見つかった当時の雑文を読んでいて……ふと作品のイメージが開けたという次第であった。

 実際のところ、いかにイメージの触手が伸びたのかと問われても覚束ないが、想像力とは、いつだって……とんでもない所から跳躍するのかも知れない。

 九年前の雑文ではあるが、先の短編小説と(僕としては)対をなすようにも思え……僭越ながら、ここに掲載してみたいと思う。

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  九年前の五月のこと……

 昨日、おかんの一周忌法要を終え、ようやく一区切りというわけでもないだろうが、出不精の僕が、ついなんの躊躇いもなく都美術館で開催中の「バルテュス展」に足を運んでみた。
 もとより、最も愛する画家とあってみれば当然の仕儀だろう。

 僕がバルテュスの存在を知ったのは画家を夢見ていた少年時代の頃だが、当時は知名度も低く、その評価にしても随分と偏見に満ちたものであった。
 曰く、あられも無い少女像を描くエロスの画家……
 曰く、カフカ的不条理の世界を描く密室の画家……

 僕にしたところで、シュールレアリスムの傍系に位置する異端の画家と思っていたものだ。

 しかし、今日、実際のバルテュスの作を目の当たりに、今までの自分の印象が瓦解するのを禁じえなかった。
 そう。バルテュスという画家は、異端どころか、大上段に構えた正統派の、堂々たる自然主義アルチザンであった。
 古典技法を駆使した、まさに職人的メチエ。そして何よりも、バルテュスが重んじるのは「光」なのだ。
 とはいえ、その光は決してルクスで計れる類いのものでも、紫外線赤外線等に分類される種類のものでもない。
 思えば、光の画家といえば夙にモネが有名だが、印象派における光が偏に存在の現象であるならば、バルテュスにおける光は……存在の微粒子を包み込む、光そのもの……と言うべきかも知れない。

 今回の展覧会に於いて僕が瞠目したのは、作品群はもとより、復元されたアトリエであった。
 ほとんど壁全体を刳り貫いたと言わんばかりの巨大な窓! その窓から降り注ぐ光の中に、画家のイーゼルは据えられているのだ。
 画家は降りしきる光の粒子を筆に絡め、キャンバスに封印したのだろうか?

 確かに、薄暗い展示場に犇めく作品からは、武骨な照明を冷笑するごとき……喩えるならば、紗(しゃ)を通して自ずと湧き出してくる光の実態が感得されるのだ。

 同じ光を扱うカメラを操る身として、おおいに参考になったと言いたいところながら、僕はほとんど圧倒されたままに会場を後にした。

 ところが、外界に踏み出したとたん、降り注ぐ光は真夏にも似て、上野の森は人波でごった返し、もとより凡俗の目とあってみれば、そこにバルテュスの光を求める術も無い。

 つい溜め息のままに、僕は目に入ったカフェでパスタとコーヒーを注文し、図録をめくりながら、今再び静謐なる画家の世界に沈潜することを思い立った。

 しかし、その時、僕の心を捕らえたのは図録の中のバルテュスではなく、つい正面に陣取った10代とおぼしきカップルの存在であった。
 昨今の、恥も外聞も放擲した目障りな高校生カップルとは掛け違って、その絶妙な距離感は新鮮ですらあった。衣服の一筋だに触れ合わぬ距離にあっても、二人の魂が今まさにときめいていることは予測がついた。
 たぶん、長い人生における、最も輝かしき瞬間を、二人は今まさに体感しているに違いない!
 僕はパスタを口に運ぶ手も休め、しばし当のカップルに釘付けになったのだ。
 そう。そこにこそ、たった今目撃したばかりの、紗(しゃ)の幕からたゆたいいずる柔らかい光を感じたからだ。

 もとよりカメラを取り出すわけにもいかず、僕は懸命に心の写真機をもってシャッターを切り続けていた。

 コーヒーをアイスにすべきであったと後悔するほどに、上野からの帰りの車中も蒸し暑かった。しかし、僕はすでにそんなことは忘れ去っていたのだ。そう。素晴らしいバルテュスの作品とは別に、僕だけが目撃できたもう一つの、掛け替えのない、光におう情景が僕の心をしめていたからだ……

 そして何よりも、僕がバルテュスに出会った当時、この僕自身もその光の中にいたのだから……
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 当時、僕が目撃したナイーブなカップルこそ……九年の時を隔て、作品の中、順也と空として、蘇ってくれたのだと信じたいのだ。
 神秘の、紗(しゃ)の光をかい潜って……

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