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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 9章〖62〗 最終話

       9章〖62〗最終話

 か細い猫の鳴き声に、おぞましい連想が断ち切られた。
 雪は遠慮がちながらも、小止みなく降り続いている。マンションの一階にはヘアサロンやブチックと並んで喫茶店もある。サイホンを図案化した木製の看板が不意に目に止まった。甘いモカの香りが鼻孔をくすぐる。つい舌打ちが出かけたが、加代子は30分もあればと言っていたはず。もとより言葉の綾にしても、ちょっと遅すぎはしないか。時計を覗き込むと、かれこれ一時間。長引くなら、連絡くらい……

 又、猫の鳴き声が聞こえた。見ると、すぐ目の前の車の下から、一匹の子猫が足取りおぼつかなく這い出した。近づくと、まだ生まれて間もないらしく、目も満足にあいていない。それとも、あわれ盲目の生まれなのだろうか。豆餅から覗く黒豆のような、白濁した目。それでも、精悍な茶毛の虎猫で、尻尾が長い。どことなく、シッシイに似ているようであった。そっと抱き上げると、そのいたいけないきものは、震えながらしがみついてくる。啓吉はこれをセーターの中に押し込み、胸元で抱え持った。ぬくもりが心臓に、そしてこころに重なる。
(お前、もしかしたらシッシイの生まれ変わりじゃないのか)
 子猫が小さく鳴いて、答えてくれたようであった。
(そうか、ミー子ちゃんに対する執念で蘇ってきたんだな。でも、お前、一丁前の男になる頃には、ミー子ちゃん、子持ちの年増になっちまうんじゃないか。えっ、なんだって……年の差なんて関係がない……男一匹、気合を入れて愛するんだって。勇ましいんだな。よし来た。お前の面倒は、今日から俺が見てやる。旨いものをたっぷり食わせてやるぞ。そして、誰にも負けない強い猫になれ。えっ? 何々……おいらは野良でいい……野良の野性の根性で、家猫のミー子ちゃんを奪ってみせる。はっは。お前はスゴイよ。大したもんだ。それにひきかえ……)

 おっつけ二時間になろうとしていた。雪は相変わらず降り続いている。めっきりと冷え込んできた。小癪にも、尿意まで催してくる。おまけに、鼻水が出る。いや、自分には加代子の編んでくれた愛のこもったセーターがあるのだ。寒いはずはない……

 そう思いながらも、啓吉は首を縮ませ、ジーンズのポケットに片手を突っ込んでいた。ザラッとくる感触に続いて、
(さっちゃん、さっちゃん。又、来てくれたんだね……)
 指先から、死者の夢が攀じ登ってくる。啓吉はとっさに指を引いた。そう。米蔵が無理にねじ込んだ、乾板の破片であった。

 不意に、左手からペチャクチャかしましいこども達の声が聞こえてくる。見れば、七、八人の小学生が、『レインボー学園』の金文字あざやかなお揃いの学習鞄をさげてやってくる。そして、誰とはなしに他愛無い合唱が始まって、

 ぼくらはみんな 生きている
 生きているから うたうんだ

「日曜日だっていうのに、大変ねえ」
 啓吉の背後を、おかみさん達が同情するよう呟いて通り過ぎる。
日曜日――今日は日曜日なのか。激しい動揺。そして、戦慄!
 五〇七号室にはもう一人の加代子の他に、てっきり同棲相手の男がいるかもしれない。いや、絶対にいるだろう。そこに、氷柱さながらに繊細で、雲のように無防備な加代子が乗り込む。この自分に愛されることに於てしか存在証明のない加代子。娑婆では幽霊同然に、「名前」のない加代子。もし、自分が男の立場だとしたら……
 こども達の隊列が近づいてくる。啓吉は反射的に深いお辞儀をしそうになり、慌てて胸を張った。啓吉の背後を通り過ぎる間際、こども達の歌声が止み、嫌悪と敵意と軽蔑の視線とともに吐き捨てて、

「くせえ……!」

 明らかに、啓吉に浴びせられた悪態であった。しかし、こども達を睨みつけるゆとりはない。

 もし、自分が男の立場だとしたら……

 かってテレビで見た加代子の、口から血の糸を流し、目を見開き、胸を朱に染めた、あるいは絞痕むごたらしい死顔の数々が、スライドのように脳裡に写し出される。
 続いて、アパートでの、殺されたフリの加代子の姿、そして最後に……五〇七号室で横たわる、もはやフリであろうはずはない加代子の、悲しくも醜く歪んだ、透き通った死顔。粗大ゴミとして、段ボール箱にでも詰め込まれた、加代子の冷たいむくろ。決して罪になることのない犯罪……

 遠ざかるこども達の歌声が再び始まった。恫喝するような大音声の、その歌詞はゾッとする替え歌になっていた。

 ぼくらはみんな 生きている
 豚の糞なんか 死んじまえ!

 心臓にぴったりと重なっていたぬくもりが急激に失われてゆく。啓吉はジーンズのポケットに手を突っ込むと、掴み取ったガラスの破片を、発作的に口に頬張った。

                       ――了――

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