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まるで正直者のように

「認識とかプライドとか、自己表現とか、一体何なんじゃい?」ずっと考えてきました。

この本はプライドはともかく、認識の機能や脳の連帯が壊れた認知症のひとを扱っている。
壊れたひとを扱っている本を読んだおかげで、正常とされているワタシの私たちの正体がすこしだけ、あぶりだされた。

「壊れた」と書きましたけどね、壊れたのかどうか実のところわかっていない。
「阻害されている」というのが正しいのかも、しらん。

認知症というものは、実際ガンほどには解明されていないし、カネや人材も投入されていない。

ぼくはたまたま介護の現場にいて、日々重症の認知症のヒトと暮らしている。

認知症がばりばりに進むと「もの忘れが」とかじゃなくて、一日中奇声を発してなんか動いてるだけ、になる。

「かつてヒトだった」という事態になる。

そういう方々を見つめながら「本当、みんなキャラ立ってるなァ!」と感心する。
認知症、例えばアルツハイマーとざっくりゆっても、本当に現れる現象は全然違う。
共通してるのはむちゃくちゃになるのダってこと、だけ。

同じ病気なんだろうか?

「50年前ならこのひとたちの居場所は精神病院の、もしかしたら閉鎖病棟なんだろーな」と度々感じる。
そういう特別擁護老人ホームというシステムの職員をぼくはしております。黙っててすいません。

福祉には、正直関心はありません。ぼくはぼくがなるべく楽しく生きのびることしか、関心ねえです。

そもそも、「仕事に役立つ本を読む」ということができません。
編集やイラストをシノギにしていた頃ですら、編集やデッサンのことを書いた書籍や文章術やレイアウトや交渉術に関する本を読んだ記憶がない。
だから、人生で初めて読んだ「シノギに関する本」かも知れません。

たまたまこの職につき、たまたま認知症のヒトたちを眺める暮らしになり、たまたま「認知症のヒトってどういう仕組みになってんだろう?」と興味が湧いたんで、タイトルに見事に釣られてしまいました。

ニュースがおずおずと伝えることでもありますが、「2025問題」言いまして、戦後のヘビーブーム世代のひとたちが、数年後にドバッと後期高齢者になる。後期高齢者の人口が全人口の20%を超え、認知症のヒトが700万人を超えるだろうと言われている。

認知症ゆうてもいろいろありますから、急に700万人がぶち壊れる訳じゃないんだだけど、認知症に「回復」はないだろうし、トシとともにひどくなることを考えるとこれはキが遠くなる問題です。
年々、増えることはあっても、減る要因は死亡しかありません。

ぼくは自分が住むこのクニはとっくに斜陽に入っていると認識している者ですゆえキが遠くなるのです。

後期高齢者が増加して、労働人口が激減する。労働人口を賄う「新しいポンニチ」というべき海外からの労働力には概ねクソみたいな扱いしか、しない。
こんな共同体に輝かしい未来があるなんて信じる方がビョーキじゃね?

ぼくは数年前から「二流国を生き抜く作法」を考えております。まァバツグンに貧乏なウチの生まれなので、そこはいろいろ知ってるんです。
は、ともかく、こんなイビツな人口構成で経済が廻るのでしょうか? 

高機能な紙オムツを開発する能力はともかく、高機能な紙オムツをいつまで高齢者に供給できるのでしょうか? 
ソレ以前に食糧自給率が極めて低いこのクニで、さらに第一次産業につきたいなんてひとが絶えて久しいセビロさんだらけのこのクニで、いつまで海外から食糧を買う余裕があるのでしょうか?

これは、もうもたないだろう、と個人的に思っている。
こんなイビツな人口構成は人類の歴史になかったことである。初体験。やさしくしてください。
むちゃくちゃすぎて眩暈がするので、ネットで無料無修正のハメ撮りばかり観ています。

認知症にまつわるストレスを考えるにつけ、いろいろ思うとこがあります。

まず、「認識」の問題。
「認知症の患者か?神か?」。
極端ですけどね、ソレを考えるとわれわれのほぼ全て、正常とされるオトナは認知症のヒトの隣の席に座ることになるわな、というキモチになります。
ヒトはなんでも理解できる訳ではない。ヒトの認識は不完全でしか、ない。もちろん、ヒトは進化の最終形態でもない。
こういう事実をつきつけられます。

ぼくも散々アタマおかしいだの、常識がないだの言われて生きてますけどね、言われてる立場からゆうと「多数派のキチガイか少数派のキチガイか」みたいな話、で。

一体どこまでが正常でどこからが異常なのかという定義も基準もないまま、ヒトたちは自分は正常だと信じて暮らしております。認知症のヒトも自分は正常だと思って暮らしております。
じゃあ、一緒じゃん。

そもそもパーフェクトに普通のヒトはいないし、いたら彼こそ「神」なんじゃないでしょうかね?

多数派のキチガイか少数派のキチガイかを廻る城のとりあいみたいな妄想幻魔大戦は、自然と正当化ということを生んでしまう。
「自己正当化なしでは、ヒトはヒトとして生きていかれない」という事実は、せつないことであります。
何故ならヒトは自分の生しか生きられないのであり、ここに伴走者は存在しない。

世界の中心には自分以外いないし、自分が滅べば世界が終わる。
それは怖いこと。
ぼくは認知症のひと特有の「知ったかぶり」に日々むかつくのですが、これはお互い仕方ないとしか、言いようがない。認知症のひとは認知症のために、ぼくはぼくのために。お互い自分を守るために、むかついてしまう。

介護の現場は酷いもんです。
職場環境の酷さ。どんどんヒトが辞めていきます。
何しろ不条理としか言えない介護でストレスがパンパンになっているからパワハラとも言えぬセコいパワハラだらけです。
給料が安いとかウンコの始末とか原因はいろいろ言われてますけどね、仮にもイノチに直結してるからシビアで、だからこそ起きるにんげんを削るような人間関係がたくさんの辞職者を生んでいるとぼくは感じております。
まァ、これも「正当化問題」の影の一部ですわな。
みんな適当(確たる根拠がない)だし、コミュニケーションに向き合ってないし、何より「リスク」とやらにがんじがらめです。
ンなことは、愚痴ですね。失礼。

「ただいっさいは、過ぎてゆきます」
これは真理だと思います。
その「過ぎてゆく」ところにこそ、「個性」は宿るのかもしれません。

ヒトの経験自体、その順番やタイミング、いわば「景色」は、彼固有の「身体」と同様、個性であろう。もしかしたら、運命に近いのかもしれない。

見てきた景色が違うから出来上がる作品は、もちろんちがう。ぼくが他人の景色をリアルに感じられないように、誰かもぼくの景色なんかどうでもいい。

ただ、「違う」ということだけが置き去りにされ、ズレはどんどん拡大し、とりかえしがつかない。ぼくも誰かも、みんなみんな。
みんな「お前には信じられないものを見てきた」というロイ・バディーなんだよね。

「なぜぼくはぼくなのか?」それは、やっかいなこと。今のところなんとか受け入れております。

今夜はいろいろ考えた。
ヒトが生きる上で一番やっかいであり一番頼りにしている「プライド」を滅ぼそうとしたのがブッダの仕事だったンじゃないかと思うに至った。
プライドがなければ、すがらなければ、ヒトはもっとよく生きられるンじゃね?

最後に。ぼくは「東電OL殺人事件」や「阿片王 満洲の夜と霧」の佐野眞一の書いた本だと思ってたんですが、読み終わって初めて間違いに気づいた。

mixiのレビューより転載。
「認知症の人の心の中はどうなっているのか?」
佐藤眞一 光文社新書
★4つ。

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