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頭の片隅に浮かぶ、実家を飛び出したい夢って本気なのか


実家に戻ってきて半年が経った。


もう、無理だ。
そう思うことが増えた。

でも、家族のそばが良い。
なんて矛盾した考えなのだろう。

いっそのこと都合の良いときだけ
一人になりたい。
むしろシェアハウスでも良い。

誰にも邪魔されない空間に
一瞬でもいいから飛び込みたい。



実家生活の自分にとっては、
とても些細なことで怒られている気がする。

自分では分からない感覚と価値観に
初めて直面する。
初めて考えさせられる瞬間が多い。



実家を離れて、10年以上も
家族と離れて一人暮らしをしていた。

だから慣れない。
自分の時間に誰かが介入すること。
なぜだか…
邪魔くさくなってしまう事もある。




一人暮らしの時よくしていた、
メールや電話。

少しの泊まりだけでは、
見えてこなかった・聞こえてこなかった、
日常に驚くことは未だに多い。

相手に言われて、初めて、
気付くことだって、誰しもあると思う。

でも、実家にいることで、
そんなに怒られることってあるかなって
疑ってしまう。

そんなに悪いことしてるかなって思う。 
ほんとに些細なことなんだけどね。


〇〇してほしい。だけでは
なかなか直らない気もする。
もちろん努力は、しますけども。

こうしてくれたら、
〇〇だよ。
〇〇するよ。
〇〇できるよ。

言い方の違いひとつで、
感情は変わる。
感情は動く。

つまりは
変わるキッカケが生まれると思う。









私は、よく「喋る声が大きい」と怒られる。

テレビを見てるんだから、
ドラマの配信を見てるんだから、
ごはん食べているんだから、
お願いだから静かにして。

テレビよりも、配信よりも、
もっと私の話を聞いてくれないかな。
私のこと見てくれないかな。

そんな考えは、
おおよそ子どもなのかもしれない。
でも私は、
そんな子ども感覚って大事だと思う。

シンプルでいいんじゃない?と、
時々自分に、声を掛けたくなるから。





私は、よく「音が大きい」と怒られる。

もう寝てる時間なんだから、
大きい音で階段を登り降りしないで。

さすがに、これに対しての心のなかでは、

自分だって、
私が寝てるときに
大きい音を立てるくせに何なの、だ。


私は腰の持病で、
夜になれば
腰が痛くて痛くて、たまらなくなる。

すぐ横になりたいし、
座布団一枚じゃ痛くて駄目だ。

沈んでしまうソファーだと
支えきれないから
椅子が良い。

それを必死で痛くないように、
誰かに、痛い事を悟られないように、
ごまかして歩いている。

必死で、痛さを我慢して、
毎日かばって生活している。

それを分かってくれているだろうか。

好きで、音を大きくして、
階段を登り降りしてるわけじゃない。
わざと音を大きくしてるわけじゃない。 

それを分かってほしい。





私は、よく「なんで面倒くさがるの」と
怒られる。

母はパートへ行く前に、
まだ寝る娘たちに
声を掛けるルーティンがある。

でも寝顔を見られるのは、
恥ずかしくて、
寝ているところを誰かに見られるのは
とても気持ちの良いものではない。

少なくとも私は嫌な方に入る。

パートへ行く前に
娘の顔を見る習慣自体は
ステキだと思うので、
拒否はしない。

けれど、
寝起きは機嫌が悪いことだけ
知っていてね。と
ホントは言いたいだけ。



私の寝起きが悪いのは
昔からなので、
そのなかでの返事を
面倒くさがるのは当たり前で、
迷惑そうにするのも当たり前だと思う。

でも、
返ってくる一言は  

なんで、そんなに面倒くさがるの?

もはや起きようとしていて、
眠気が残る状態で言われた。
そのときに、浴びた一言が
一日中、頭のなかを巡ってしまうから
やめてほしい。ただそれだけ。

わたしが過敏なのかもしれないけど。
私は、
言われた一言とかが残るタイプなので。

それ自体が面倒くさいかな、やはり。
と、自分で自分を笑ってしまう。

夜に仕事が終わって、
ふらふらになりながら帰ってきて、
テレビもチャンネル件があるから、
ろくに見れなくて、
イライラが募ってしまっていって。

わたしは貴方に話をしたいのに
テレビを見てるからって、
こっちを見てくれない。

なんで?

こっちは、ずっと我慢しているのに。
貴方に、何を言われても、
言い返す元気すら残ってないのに。

それほどに
余裕がなくなってること自体が
結構な疲労レベルの証拠なのだろう。

そんなとき身体が休め司令を出して、
必死で私を守り何もするな。とでも
言ってるのかもしれない。






もし言えるのなら、言っていいのなら、

お願いだから、自由にして。
お願いだから、わたしを縛り付けないで。

できるのなら、そう叫びたい。


でも、声を大にして言わないから
分からないかもしれない。


貴方には貴方の事情があるだろうから
一概にも簡単にも
貴方を責めることは出来ない。

だったら、
私が我慢しとけばいいでしょ。

いつも、そうだ。

そしたら丸く治まるから良いでしょ。


そう考えて、
そうして、
自分を追い込んでいることも
まだ知らない。
まだ分からない。

何度も何度も、それで悔しいことも
苦しいこともあったはずなのに。

まったく分かってない。

人間そんなに変われない、
所以だからだろうか。

それでも、頭のなかでなら、
いくらでも自由になれる。 
一人になれる。
思考を自分だけに注いであげられる。



でも、だからと言って、
言いたいこと全てを伝えたところで、
相手はいい気分しないだろう。

だから我慢する。
それしか自分を守る方法がないのだ。

そう思い込んでいる。




どちらかと言うと、
私は外では静かな方で
家族の前では気が楽になって喋り続ける。

昔から、ずっとずっと、
きょう何があったか話を、
自分の気が済むまで
永遠と話し続ける。

そうやって、高校生までの18年間を
積み重ねてきた。

そうやって、
現実も、夢も、嘘も、話し続けてきた。

そうやって、
頭のなかを整理しながら
心を落ち着かせてきたように思う。

でも、わたしを受け止めてくれた家族が居たから出来た事だったかもしれない。
どこに行っても、私を受け止めてくれる人がいる限り、私は私でいられるのかもしれない。

それに気付いたら、楽になってきた。

だから、でも、必然ともいうべきか。

声は大きくなるし、
天の邪鬼だけど構ってほしくて、
私のことを見てほしくて、
あえてアピールをしてしまう。

いろんな部分を見せつけるように
行動に起こしてしまう。


それは私が私として生きるためのスタイル。
あくまで実家で暮らす、私のスタイル。

最近、三十路になったのだから、
少しは肩の力を抜いて、
ひとつのことに固執せずに囚われないで
生きていきたいかなって思う。