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【育児】頭をうって泣いたのにおもちゃをもらってケロリとする娘

赤ちゃんが動くようになると、本当に赤ちゃんから目を離せなくなる。家の中にあるちょっとしたものにぶつかるだけで、怪我をする可能性があるからだ。

親としてはなるべく危なくないよう、机などの角に柔らかい素材の物を貼り付けてみたり、キッチンにつながる通路にガードをつけたりと、さまざま工夫を凝らす。考えてみれば日本の和室は畳とちゃぶ台であるが、ちゃぶ台は足も丸いし台も丸いし、畳には多少のクッション性がある。子育てにおいては、板の間ではない和室は割と合理的なのかもしれない、と今更ながら思いが至る。

とはいえ世の多くの家はいまや洋室である。
床がフローリングだと、赤ちゃんは転んだ時にゴンと頭をぶつけてしまう。
ぶつかった勢いにもよるが、大概は痛みに「えーん」と涙を流す。
この際、親は痛みが少しでも治まるようにと子供をあやすわけだが、時々おもちゃを手渡してやる時がある。私の娘もおもちゃを手にしてケロリと泣き止む。

泣き止んだから万事OKと行きたいところなのだが、冷静に考えると妙である。
娘はさっきまで、固いところに頭をぶつけた痛みから泣いていたのに、おもちゃをもらって泣き止んだわけだ。おもちゃをもらうだけで痛みが快癒するわけはない。

似たような現象は予防接種の瞬間にもある。娘の腕に注射が打たれると、当然ながら娘は大泣きする。しかしその後、甘いシロップの予防接種の薬を飲ませると、途端にんぐんぐと飲み始めて、けろっと泣き止んでしまう。

おもちゃ・シロップによって痛みから意識を遠のかせたとも言えそうだが、大人で考えてみると頭をどこかにうった後にゲームやスタバのクソ甘い何とかフラペチーノみたいなものをほいと手渡されても、別に頭のじんじんとした痛みは続き、私たちは「いてぇ」などと騒ぎ続けるだろう。
仮に泣き止んだとしたら、そのひとははたから見るに常軌を逸している。

赤ちゃんが痛みを感じていないということはないだろうから、たぶん過去を忘却してしまうくらい鮮烈な今を生きているのだろう。
娘にとってはいつの日かほとんどが失われる幼年期の記憶たちである。子供が確かな「イマ、ココ」を積み重ね、そして未来に歩む足跡を振り返りながら、ともに歩みを進めながらいつの間にか過去になっていくわが子の成長の過程を懐かしむのが、親という生き物なのかもしれない。いやはや、親という漢字を「立ち木を見る」と書くのは、実によくできている。

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