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幻想にゆらめく

露に濡れた砂利を踏みしめる。ざり、ざり。鈍い雑音が、それでも前進していると知らしめていた。夏の初め、雨上がり、青々と背の高い夏草が微かに凪いでいた。生の匂いに噎せ返りそうだ。頼りない足下に、サンダルで来たのは失敗だったと思った。わ、と時折小さく驚く声がする。お気に入りらしい白いスニーカーは既に汚れてしまっている。スニーカーでこうならまあ、どっちでも変わんないか。精々数十分、灘らかな路を往く。小さな虫を手で払いながら、碌な言葉もなく淡々と歩いた。時折触れる小指は、夏にそぐわず少し冷たかった。言いたい言葉がなかった訳じゃない。言わなきゃいけないような、そんな言葉は幾つも脳味噌を掠めた。声にはしなかった。出来なかった。空気に触れさせてしまったら最後、消えてしまうと思ったから。

「ほんとうにこの先にあるの」
「そのはずなんだけどなあ、路、間違えてないはずなんだけど」。なにぶん、お互いに初めて来たところで、初めての景色だ。地図アプリが役に立ちそうもないことは、小道の入口で悟った。古びた看板だけを頼りに足を進めていた。
「珍しく遠出したいなんていうから驚いたけど、」息が上がる。情けないな。
「いや、私も何となく。見てみたいと思ったんだよね」「急に?」「今見ないといけない気がしてさ」

まるで、呼ばれてるみたいに。

そう、としか返せなかった。得体の知れない気がして怖かった。不意に日が陰って、端正な横顔に影を落とした。ああ、いま、私の知らない世界を見ている。こんなにも長く一緒にいた、気がする、のに、この人のことを、もしかしたら殆ど知らないのかもしれない。それからはまた、何も言葉を発さなかった。黙り込んだ頬に汗が伝う。まるで絵画みたいだなと振り返って思った。このまま飾っておきたい。時を止めて閉じ込めたい。鼓動も、体温も、そのままでいいから。陽光が漏れる。葉脈の上の、雫に反射する。――不意につんのめった。袖を引かれたのだ。

「――ねえ。ここよ、みて」

視界が開けていた。気が付かなかった。大きく水を称えた、その中央に、緑色の島が浮かんでいる。木々が鏡のように映っていた。嘘みたいだと思った。浮島?これが。小さく声に出せば頷いた。そうか、これが、あなたの見たかったもの。命の遺骸が、根も下ろせずに揺蕩う島になったもの。その上に命が芽生えること。やけに綺麗に見えた。でも何だって、何に呼ばれたって言うんだ。

「昔話があってね、」虫の声も忘れたくらいに静かだった。「この池には大蛇が住んでいて、ある日訪れた娘を見初めたの」――大蛇は娘を妻とし共に池の主にしようとした。娘は悩んだ末大蛇への嫁入りを決心して、7日続いた霧と大雨の末に池へ消えた。と。淡々と語る。影を含んだ声だった。知らない声だ。謂わば、人ならざる者の妻になるために、娘が入水した地なのだと。あの浮島は、その娘の、にんげんとしての命の証であると。それを、どうして。「呼ばれたって、なんで、おまえ、」手首を掴んだ。作り物みたいに、まるでマネキンみたいに美しくて、冷たい手だった。私と、ふたり、どうしようって言うの。或いは、おまえひとり。木立がざあと凪いだ。「あるじにはなれなくても。」木漏れ日が途切れる。やけに長い時間に思えた。ジーンズの裾が濡れている。はっとするような青のスカートが、ふわりと微かに風を孕んでいた。ざり、と、ほとんど無意識に右脚を前に出していた。

「――帰ろうか。」

急に振り向いた、栗色の双眸と目が合った。いつもの見慣れた、何の屈託もない瞳だ。声に影はない。音が戻る。木々の隙間から、柔らかな木漏れ日が差した。ああ、いつも通りだ、いつもと変わらない、36度の指先も。くるりと踵を返して来た道を往く。思い出もないくらいに、何も知らないみたいに、引き止められないように。嘘みたいな時間で、嘘みたいなおまえだった。或いはこちらが、夢なのかもしれない。きっと娘に呼ばれたんだ、どこかで繋がった、想いの部分で。これはたぶん、夏がみせた幻想なんだと思った。

町外れの寂れた喫茶店で、パフェでも食べようか。それで、市営バスに揺られて映画を見に行こう。無かったことにしても良かった。だけど、忘れちゃいけないとも思った。あのいのちを、私たちのことも。








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「お題」浮島、青、マネキン
「お借りしたサイト」どこまでも、まよいみち
「書いた人」栃野めい/落日(@zigzz__)

三題噺 4本目

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