結婚って、言葉にしがたい寂しさをも埋めてくれる特別なものではなかったのですか

 子どもの頃からえも言われぬ「寂しさのようなもの」を感じていて、その「寂しさのようなもの」を互いに埋めあえるのが、結婚というものなのだと思っていた。だから、自ずと結婚へのハードルは高くなった。この、言語化するのも難しいような「えも言われぬ寂しさ」を、理解し合い、同時に互いを慈しめる相手なのだから、それはそれは特別な存在の相手との出会いが、やがていつか自分にも訪れるのだろうと、薄ぼんやりと思っていた。
 そんな中で、日々はとうとうと過ぎ、他のことに、人生の時間はどんどんと費やされていった。自分の身を持て余しながらもなお、流れるように過ぎて行く日常の片隅で、ひっそりと人目にもつかぬところで、私はそのちっぽけで確固とした思いを捨てきれず、大事に抱き続けていた。

 ある日、尊敬している人生の先輩から「結婚したって、そんなもの、埋まらないよ」と茶化すような笑顔で言われた。それから脱力するように、わたしはもう、結婚そのものがどうでもよくなってしまった。

 わたしの抱いてきた「えも言われぬ寂しさ」は、ある意味、子どもの頃に親の存在を求める気持ちへの郷愁に近いものがあった。思い切り、「おかあさん、おかあさん」と、抱きついて甘えたかった。それでも、幼き頃、わたしにそれは叶わなかった。3歳にならないくらいのわたしを脇目に、母の腹の中ですくすくと育ち、生まれてからは「おかあさん、おかあさん」とわたしと母との時間を奪っていった弟は、大人になればあっという間に結婚していった。

 とりのこされたように、大人になった今でも、わたしだけが誰にも甘えられずにいた。大人になってより一層、甘えることもできずに、甘え方もわからずに、迷子になって膨れ上がっていく、図体ばかりでかくなった幼き日々の自分の記憶と感情を、どこへ置けばいいのかわからなかった。

 結婚において求める存在は、他の言葉では「恋人」「配偶者」「パートナー」などと表すことができようと、絶対に「母」にも「親」にもなりえない。
 「おかあさん、おかあさん」と抱きついて、泣いても笑っても甘えたかったあの日々の自分の気持ちは、歳を重ねても宙ぶらりんなまま、浮いたままになっている。
 「結婚したって、そんなもの、埋まらないよ」先輩の言葉にあのとき感じた絶望を、冷静に夜中にひとりの時間を過ごしているときなど(そうかもしれないな)と、ふと思う。
 絶望の中に、もう叶わない想いや郷愁を置いていけたら、どんなにかいいだろうに。

 SNSをひらく。今日も、友達が誰かひとり結婚している。後輩が。知らない誰かが。芸能人が。
 あの人にとって、彼にとって、彼女にとって、「結婚する理由」ってなんだったのだろうか。

 すくなくとも、「埋まらない寂しさ」を持たない、誰かは、いいな。
 結婚式の日、今まで見たこともないほど精悍で凛々しく、屈託のない表情を浮かべていた弟の顔を思い出しながら、わたしは、今夜も、ひとり物思いに明け暮れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?