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掌編小説 バナナフィッシュにはうってつけでない日

 どんよりと曇っているのに、照り返しが強く、埠頭には、腐った魚のにおいが充満している。
 バナナフィッシュ、なんてものがこの港にいるのかどうかはわからない。いるとしても、すべて死んでいる。こんなところでは息ができない。腐ったガスを腹に溜め込んで、やがて浮かんでくるはずだ。バナナフィッシュのことはミキから聞いた。二ヶ月ほど前のことだ。

「ねえ、カズさん、貨物船とかに乗せてもらったら逃げられるのかな?」
 エアコンの壊れたライトバンの中には、ミキのにおいが充満していた。鼻を刺激する安っぽいボディソープに隠れた、腐った魚みたいなにおい。その日は、何人ぐらいの客をとったのだろう。逃げたいのか。当たり前だ。逃げられるのなら俺だって逃げたい。
「馬鹿、貨物の中は、空気が薄くて死ぬぞ」
「あはははは、カズさん、死ぬの怖いんだ?」
「怖くなんかないさ」
「じゃあさ、いっしょに逃げよう」
「……逃げられるわけないじゃないか」
「そうだよね」 
 
 信号が黄色に変わったので、俺はブレーキを踏む。
「ねえ、バナナバウム買ってきたの。カズさん食べる?」
 ミキはコンビニの袋からバナナバウムを取り出して、かじる。
「いらねえ。酒が不味くなる」
 
 ミキを拾ってアパートに戻ると、酒を飲むぐらいしか、することがない。毎日朝が早いので、飲むと朝がつらい。飲まなければ夜がつらい。どっちみち同じだ。
 
 ミキが俺の住むアパートに来たのは、二年前だった。ミキの事情はよくわからない。ただひとつわかるのは、俺たちと同じように借金まみれで、行き場がなくて、倒れて死ぬまで織田に働かされるってことだけだ。アパートには、織田に言われるままに廃品回収や日雇いの肉体労働、ときどき借金の取り立てなどをする男が俺のほかにふたり住んでいる。
 
 ミキは美人で、美人のくせに良心的な価格で何でもするので、このあたりではちょっと有名だ。出会いとか、マッチングアプリが好きな連中にミキのことを知らないものはいない。
 
 ふたりの同居人と交代でミキを繁華街に送って、夜が更けたころに拾ってやるのも俺たたちの仕事のひとつだった。最初のうちは、猿みたいに見境いなく、ミキに群がった。他のふたりに見られていても、お構いなしだった。どんなにシャワーを浴びてもミキの身体からは腐った魚のようなにおいがした。それが、鼻につく。ミキも俺も、そして織田も、ふたりの同居人も、腐った魚なんだってことが、否応なしに気を滅入らせる。焼酎の刺激臭でごまかし、酩酊するまで飲んでも、においは消えない。

「バナナフィッシュって知ってる?」
「なんだそれ?」
「わかんない」
「わかんねえもんを知ってるかとか、聞くな」
「壊れた人にしか見えない魚。見えたら、頭をぶち抜けるんだよ、拳銃で」
 信号が赤に変わると、もう話すことなんてなかった。
 
 ふたりの同居人は、出かけていていなかった。コップに焼酎を注ぐと、ミキは俺に抱きついてきた。
「ねえ、しようよ」
 バナナのにおいのする甘い息が、鼻先を掠める。
「よせよ、朝が早いんだ」
「あたしが全部してあげるから」
「……風呂に入ってないんだ」
 服の上からでも、ミキの肌の熱さを感じた。
「大丈夫よ、きれいにしてあげるから」
 服を脱ぎ捨てたミキの体のあちこちには、無数の赤い水ぶくれがあった。
「どうしたんだよ、これ?」
「ああ、ちょっと虐めるのが好きな人に気に入られちゃって」
「馬鹿、織田にちゃんと言えよ、そのくらい」
「大丈夫、このくらい。なんかろうそくとか持参できたからびっくりしたけど」
「痛いか?」
「わかんない」
 痛い、はずだ。
「痛いとか痛くないってどういうことなのか、わかんない」
 畳の上に置いた焼酎を呷ると、胃が焼けた。それが痛いということなのかどうか、俺にもわからない。
「……殺してもらおっかな、とか、思ってるんだ。その人に」
「馬鹿なこというなよ」
「じゃあいっしょに逃げよう」
「逃げられるわけないだろ」
 俺の薄汚れたジャージをミキが勢いよく下ろす。ミキの髪を指でいじくりながら、こめかみにちょうど拳銃を当てるとちょうどいいような窪みを見つけ、俺は泣きたくなる。
 
 それからしばらく、ミキとはほとんど口を利かなかった。話すことがなかったからだ。ある日、俺はいつものようにミキを駅前の繁華街で下ろし、それからミキは帰ってこなくなった。織田には、気を失うまで殴られた。でも、知らないものは知らない。
 
 十日ほどあとで、身元不明の女の死体が上がった。ミキかもしれないなあと思ったけれど、何もしなかった。織田が怖かったからだ。
 ニュースにミキの顔写真が出てきて、警察がアパートにやってきて、ミキには似つかわしくない真面目そうな名前の女のことを聞いた。どういう経緯で、ミキの家族が、港から上がった遺体がミキであることを確認したのかはわからない。ミキの遺体は、借金のカタにミキを織田に売った家族に引き取られた。
 
 ミキのために買ってきたバナナバウムを、沖へ向かって投げる。バナナフィッシュは、見えない。それが見える日は、あまり遠くない将来に訪れるのだろう。こめかみの窪みを押さえ、俺は埠頭に背を向けた。  
                                (了)


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