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東向きの地図

合理的とは字の如く、理に合致するということになる。合理を目指す気持ちはどこまでも共感するが、果たしてその理というものはどのようなものなのか。理を想うと書いて理想なわけで、そうした理想のために足掻き、それを語るくらいのことしか人間には出来そうもないなとなんだか諦めにも似たものも感じている。
合理的だね!なんていう人がいたら、その人はなんと理を知っているということなのであろう。「なんて素晴らしいんだ!長い間、君に会いたかったのだよ!さて話を聞かせておくれ!」なんて期待に胸を膨らませたとて、きっとうんざりするような言葉が返ってくるのだろう。もう死んだ人の本でも読んでいた方がよっぽどいいのかもしれない。

さぁ本題へ。

Rimpactのロゴ

新しい和柄というテーマでまぁロゴを考えたわけです。
6つのピースをベースに組み立てていて、回転することで違った表情が立ち現れてくるシステムを構築した。ロゴというカタチにするために6つのピースとしたわけだが、もっとたくさん反復すれば、紋様はいくらでも広げていく事だって可能だ。ロゴを作ってくれって言っているのに、すぐ脱線する。ロゴを考えてくれって言われると急にアイディアが浮かばなくなる。もっと自由に、何ならほっといていてほしい。
僕は別にロゴデザインはロゴの設計図を提示することが仕事だと思っているから、別に間違っていないとも思ってはいるのだけれど、一定数「そんなこと頼んでねぇよ」って怒られることもあるにはある。幸いこの時のクライアントさんはそれを楽しんでくれたみたいだからまぁいい。かといって毎回こうだとも思わないでほしいというのもある。

青海波の紋様を海に見立てて、そこから登る朝日を象徴するカタチをロゴに落とし込んだ。コンセプトは「日出る国から海外への挑戦」ってなところだった。よく日出る国って言葉が出てきたなぁと我ながら思う。この日出る国って考え方から最近僕の生活とがどこかで一瞬にして結びついたような感じがした。そのことについて書いてみる。

日本地図でも描いてみて。別に描かなくてもいいか。思い浮かべてみてよ。

右上に北海道があって、左下に九州・沖縄でもある感じ??そうやんな。
そうすると、じゃあさ、なんで北を上に描いたの?なんて意地悪なことを聞いてみたくなる。

あなたがあなたとして直に感じられるものはなんなんだろう?
僕であれば東だろう。絶対的な東の観測なんてものは年に2回しか出来ないが、あなたたちの方位磁針頼りのものよりもよっぽど僕にとっては確かめられるのだけども。早朝に動き出した僕は陽が登るといつも東を向いて煙草を吸っている。それは太陽という間違えようのない恒星の存在と対峙しているのだから、それなりに確かなのである。僕にとって北とはそれを見て左でしかない。北をどうやって自覚するのか?難しいではないか。北極星があるだろって?難しいことをいうね。星は肉眼で見るとみんなよく似ている。それでは間違えてしまう。僕は夜は寝ているしだね。そんな星を確かとする君だけど、で、太陽を一度でも何かと間違えたことってあるの?まぁ、ないわな。
僕にとって最初は東なのだ。東西以外の軸は僕の持っている能力では観測できないんだ。方位だって東西南北と言うけれど最初は東なのだ。みんな早起きだったんだろうなぁ。陽がでてきたらみんなそちらを向いて煙草でも呑んでたんだろうよ。今の人達とはどうも考えが合わないのだけれど、そいつらとは仲良くなれそうだ。

南北は季節によって変化しないある種絶対的なものではある。それに比べて東西はそうではない。陽の登る位置は一定ではないから基準が動いてしまう。それが今でも煙草をやめろ!とか他人を縛りたがる人がたくさんいるけれど、そうした潔癖症的な人が感覚的な動に耐えきれず、静的なものを基準にしてしまったのだろう。そうして固定することで時の権力者は今の上手いこと行っている状況をも固定したかったんだろうに。固定すると大体碌なことにならない。そんなものに飲み込まれてしまっては面白くない。長明さんだって言っている。
行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
そんな感じでしょうよ。

自分なりの地図を描くことがある種の理とでもいうのかもしれない。理というよりは環世界というものに、より自覚的になるのだろう。環境の中で自分が感じ取れるものの範囲が環世界。人間と虫とで同じ環境にいても、捉えられる内容はまるで違う。だから環境という言葉よりも環世界の方が僕にはピンとくる。毎朝、東から大きな声で叫んでくるやつがいる。その声だけは僕にだって拾える。他の方位はまるで感じられない。そうした動的な軸を元にした自分だけの地図の方がいい。

他の人が作った地図を基準とすると、そこにはもう一つ必要なものがある。それは矢印だ。たまに地図だけ置いてあって、現在位置を書いていない不親切な地図があるけれど、それでは自分がどこにいるのかまるで分からない。だから他人に任せると矢印なんてものが必要になる。そして矢印なんてものがあると、次はその矢印と環境との間に、はっきりと線があるのだと人間馬鹿だから感じてしまう。そうして個人だとか、私だとかってことを考え始める。そうやって生きづらいとか思ってしまっているんじゃなかろうか。声や音、光や空気といった自分で感じられるもの全てを遮断したような空間の中で宇宙にいる訳でもないのに宇宙服という空気の層でもまとって、何とか生きているのだと言った錯覚はこんな風にして簡単に作り出されてしまう。これを前提にして人間だの経済だの建築だのと言っているから話がまるで通じない。そんなことを最近は考えていた。お前ら天竜人だな??

それに気付いている人にだけ、きっと生きづらい、居心地が悪いという声が夏場の蚊の羽音の如く嫌な音として届いてしまっているのではないか。
ある場所では毎分何十トンもの水が湧いているのに、インフラに頼った誰かが作った水を飲んでいる。自分たちで作った野菜を誰かに売って、それで得たお金で野菜を買っている人もいるのかもしれない。何ともおかしなことではないか。
子どもの頃はお金なんてなくても遊べていたはずなのに、どうも最近ことあるごとにお金を使わないと遊べないようなことばかりさせられている感があまり好きじゃない。火でも囲って、歌っていればいいはずなのに、わざわざ居酒屋なんていう居心地の悪い、煙草も吸えない所に好き好んで押し込められている。
デートだって僕から言わせれば別にディズニーランドなんかに行かなくても、近所の公園で手でも繋いで、時々煙草でも吸って散歩していれば、いいなぁと思うのだけれども。どうやらそれではいけないらしい。僕の散歩コースの川沿いの緑道にはよく老夫婦が散歩している。彼らは鳥がいると二人で指さして同じものを見て、感じて、共有している。そんな姿に理想を重ねてしまうのだった。

宇宙服の中は地球に模した空間が薄く、身体に沿って広がっているが、ここは地球であり、日本である。その外にはそれこそ供給過多もいいところな豊かな資源がたくさんあって、それを元に自分なりに世界を構築することをしてみたい。そうやって描かれた地図は東が上であるかもしれないし、矢印なんてものもいらない。であれば私というものは別にこの地図なのであって、そんなものを探す必要だってなくなる。それを建築とでも呼ぶと僕にはすんなりくる。自分探しなんて言っている人は地図が完全に北を向いている。そもそも自分探しをしているお前は誰だ?馬鹿か。90度角度を変えるだけなんだ。

考えてみれば今吸っている空気だって、ちょっともらうで〜と吸収して、何かしらの反応を起こし、何かしらを排出している。
それは食べ物だってそうで、例えば野菜でも食って、それが吸収されて血肉となるわけであり、私と野菜とは実は繋がっている。
建築だってそうだ。睡眠という時間を守ってくれるのは家だろうし、暖炉でも囲って語らうことがあれば、そうした体験が思考に何らかの影響を与えるのだろう。階段を上り下りすることで筋肉を動かし、それによって身体が作り替えられることだってあるだろう。何かものを作る場所があればそこから自分なりの新たな発見をするに違いない。
そんな風にして考えてみると、環境と矢印が完全に切り分けられる誰かが描いた北が上を向いた地図はおかしい。実世界においては矢印と周辺の環境とは密接に関わって、それこそ境界が曖昧であることの方が自然なのであろう。それをくっきりとしたシルエットとして、あたかも私なんてものがあるとして、宇宙服的に捉えるからおかしいのだろう。所有というものも全く同じだ。これは俺の空気だ!吸うならお金を払え!なんて言っている奴は頭がおかしい。誰でも分かるはずだ。それなのにそれが土地となった途端に思考が停止する。雑草はコンクリートの隙間にだって根を張るし、猫は人の家の庭だろうが、車だろうが関係なく住み着く。ゴリラは毎晩一人一つ自分のベッドを作って眠っている。人間が空気を扱うように土地についても同様に使っている。どうしてそれが出来ないのか?シンプルなことだと思うのだけど。
環境の変化によって定住せざるを得なくなった我々の祖先がアホなことを考えてしまったからなのか、資本主義によって何でも資本にされてしまったからなのか、僕にはまるで分からないのだけれども、どこかおかしいことだけは感覚的に掴める。建築の寿命と同時にそれが時間的なスケールにおいて、ちょっと土地を貸してくれい!ということなのかなと思うと、そういう訳でもなさそうで相続だの権利だのややこしいことが出てくるようだ。ここは〜の補助金が出ているから、建物は建てられませんだとか、農地だから住宅は建てないでくださいとか、土地には使用法まで割り当てられているらしい。人間は自分で小屋すら建てられない悲しい生物に成り果てた。悲しいね。今や何でも自分達で作るんだ!ってな気分すらすっかり奪われてしまった。子どもの頃はみんな何でも作れる建築家だったはずなのに。

我々は日出る国とやらに住んでいるらしい。東が軸にあったのだ。我々の生活が太陽によって支えられていることを知っていたはずなんだ。建築というのか住宅を考えるときなんかは太陽は南を象徴する存在になっている気配がある。
太陽が登ってきても皆、寝ているらしい。時間軸と共に方位までもがずれてしまっている。
宇宙服を今すぐ脱ぎ捨て、登ってくる太陽目掛けて煙草の煙でも吹きかけてみればいいのだろう。太陽を見ると体内時計がリセットされるという。それと同じに体内方位もリセットされてみてはいかがか?

90度ずらしてみるだけさ。

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