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死について考察する(一人称→二人称)3/n : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ

さて、死んだらどうなる?
・極楽浄土/天国(あるいは地獄)みたいなところに行く
・輪廻転生①人間に生まれ変わる
・輪廻転生②人間以外のものも含むなにかに生まれ変わる
・霊魂みたいなものがこの世にのこる
・無
ほかにもあるんかな?

ストア派の見解は、けっこう人によって違う感じです。

われらがセネカ師匠の、さらに師匠である、アッタロス大師匠は、魂は死後、ほかのものに宿ることがあると言っています。だから肉食はやめようね〜っていう文脈。(あなたの親の魂が、その動物に宿っているかもでしょ?という理屈である。なるほど。)
まあ、でも、セネカ師匠は、パパ(大セネカ)が、お前は体も弱いんやけん、肉も食べんね~と勧めてきたから、普通に食べるらしい… わりと自由やな。

少し時代が下って、哲人皇帝マルクス・アウレリウスくんは、「無」説をとっていますね。

死について。
もし原子(アトム)のみがこの世に存在するならば、死は散逸である。もし世界が一体化して一なるものであるならば、死は自己の消滅、ないし他のものへの変移である。

『自省録』マルクス・アウレリウス

つまり、物質として分子レベルにまで分解され、ほかのものの材料になるってことですね。うん、すごく理解できる。
ただ、よくよく読むと「魂の不滅」みたいなものを否定しているわけでもないんよね。それに、アッタロス大師匠のいう、動物に〜云々も、分子レベルで考えたら、極論をいえば誰かをかつて構成していたモノが、動物を構成するモノになっている可能性はある。という話にも取れる。

ローマ帝国の共同墓地には、Hodie mihi, Cras tibi(今日は私へ、明日はあなたへ) と刻まれた石碑があるそう。 
次はあなたがお墓に入るのよ〜、いまちゃんと生きときなよ〜というメッセージなのかな。あんまり、死後の世界とか黄泉の国って感じではないですね。古代ローマ人、湿度低めなのか。では、ただちに生きよう。

さて、おまけとして、二人称の死について。

セネカ師匠は、幼い子供を亡くした友人に対して、悲しみすぎるのは良くないよ!と厳しめの言葉をかけていますが、そのあとのフォローが素敵なので紹介。


避けえぬことはすみやかに受け入れたまえ。どんな信じがたい、どんな新奇なことが起こったというのか。何と多くの人々がちょうど今頃、葬儀の契約をし、何と多くの人々が経帷子を買い求め、何と多くの人々が君が服喪したのに続いて喪に服することだろうか。

子供はもういないと考えるたびに、人間一般のことも考えたまえ。人間には何一つ確かなことなど約束されない。 運命は必ずしも老年まで導いてはくれず、よいと思った時点で生から放り出す。

だが、その子のことを頻繁に話したまえ、できるかぎりその子の思い出をあたためたまえ。思い出すのを辛いと感じなくなれば、思い出はもっと頻繁に君を訪れるようになるだろう。悲しむ人と、まして悲しみそのものと、喜んで付き合える人などいないのだから。もしも君が、何かその子の言った言葉か、幼なかったにせよ何か面白いことを言ったのを心楽しく聞いたことがあるなら、何度も思い起こすがいい。君が父親として心に抱いていた希望をあの子は満足させてくれたに違いないと、憚ることなく確信したまえ。

   『倫理書簡集』ルキウス・アンナエウス・セネカ


その子が何か面白いことを言ったのを…というところ、すごくぐっときます。セネカ師匠自身も、我が子をなくしているので、胸に迫るものがあったのかもしれません。

身近な人が亡くなったとき、それを互いに語り合うことで悲しみも和らいでくるし、だんだんと思い出が優しいものになる。
お父さん、あんなこと言ってたよね〜とか、おばあちゃんのこういうとこ頑固だったよね!みたいに話していくと、懐かしさ、温かさを感じられる。後悔がゼロになるわけではないにしても。ではお元気で。

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