「どうありたいか」よりも「どうあれるか」

「ゆのちゃん(私のニックネーム)はどうありたいの?」

この質問をされた時に、すごく答えにくくて、苦手だなと感じた。

私は人と接する時にその人に対してどのくらい「安心」を抱けるかによって、自分の見せ方が大きく違う。友人という関係性の中で安心度がマックスの人に対しては、すごくゆるふわ系人材になってしまう。もともと末っ子気質なため、死ぬほど甘えてしまうし、語彙力が小学3年生並みになってしまう。(みなさん本当に迷惑かけてます、すみません。)まだ、知り合って間もない友人に対してはしっかりとした言葉で相手のことを知ろうとする。この時の語彙力は大学4年生くらいの能力はあってほしいと願っている。

仕事の中でも相手に安心感を抱けるかによって自分の見せ方が違ってしまう。私の意見をしっかりと聞いてくれるという安心感を抱ける人に対してはしっかり提案や意見をいうことができる。しかし、どうせこの人は私のことを否定してくるし、(意見のグレードアップのための否定ではなく私自身を否定)安心感を抱けないときはまともにコミュニケーションをとれないことがある。(この時も語彙力が小学校6年生並みのものになってしまう)

誰に対しても一貫した自分を突き通せる人間と、相手がどんな人間でどんな思考を持っているかによって自分を変える人間がいる。そして私は圧倒的に後者だ。相手がどんな人間かを考慮することプラス、私はとてもハイコンテクストな人間でもあるから、その場の空気というものをすごく気にしてしまう。今はちょっとピリついてる、今はなごんでいるとか。そういうものも考えつつ、自分の見せ方を大きく変えてしまうからとても疲れる。

どういう人といるかによって、好きな自分だったり、嫌いな自分だったりする。すごく厄介だなと思いながらも、そんな自分と付き合っていかないといけない。さらに言うと、「ゆのちゃん(私のニックネーム)はどうありたいの?」という質問はさらに厄介だった。私だって、いつでもどこでも好きな自分であれるものならそうでいたいが、私を構成するのはいつもその場の空気だったり、そこにいる人たちだ。

私が安心できるような場にするか、相手が安心できるような人に配慮するか、なんだか鶏と卵問題みたいだ。

「どうありたいか」

それを考えるのは結構難しいような気がするし、どうありたいかなどそもそもわかるのだろうか。私の友人は「周りとの調和でどうあれるかが大切」と言っていた。職場の99%の人が残業をすることが正しいと思っている中で、自分は残業せずに帰宅することが難しい。それよりも、自分は残業をしたくないのなら99%残業をしない人たちと働いた方が楽に決まっている。他の人が99%残業している中で、残業せずに帰宅することに周りの目を気にしつつ、そこにエネルギーを費やすくらいなら私は自分の成果をあげたり、顧客のためにそのエネルギーを使いたい。

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もともと日本人は自然の中で「どうあれるか」を模索してきた種族だと思う。

四季や台風、自然災害が多い中でどう自然と付き合っていくかを模索してきたはずだ。自然が私たちが生きていく上で最上級にトップの存在だった。それが人間が技術という魔法を持ち、自然を操れると錯覚しはじめたときから、すこし世界は変わったのかもしれない。便利さや容易さが正義だと間違え始めた時から、人間中心の世界になり、周りとの調和というものを考えなくなったのかもしれない。「どうありたいか」そんなものは人間中心の言葉であり、本当は「周りとの調和でどうあれるか」の方が自然を重んじてきた日本人のあり方として正しいのではないか。

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この前、宮崎の日南市というところに友人たちに会いに行った。友人たちは廃校をリフォームしてそこを拠点に活動している。3日間お世話になったが、満天の星空や、空と海の間でサップをするのはとても心地がよくなんだか生かされている感覚がした。自然の美を感じる一方、自然の不愉快さや不快さもあった。蚊取り線香を焚いても大量に刺される蚊、海に入ればクラゲっぽいのに刺され、廃校は山のすぐ隣なため蛾やゴキブリも出てくる。

不快さを受け入れつつ、自分はどうあれるか。
そのヒントを宮崎からもらったような気がする。
答えはまだ見つからないが、焦らず、少しずつ、進んでいきたい。


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