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10月18日

31年前の今日、私はサンフランシスコに到着した。それより少し前に中学時代の友達にいとこがアメリカから日本に帰国中だからアメリカの話聞けるし、一緒に会わないと誘われた。一緒に短大に行くはずだった友達がアメリカ留学した事もあり、私は喜んで友達の家を訪れた。15歳も年上なのに話しやすいし、面白い人だなあというのが最初の印象。聞けば渡米後、10年かかってアメリカ永住権取得の最終面接のために10年ぶりに日本に帰国したらしい。大学卒業後、東京でテレビ番組などの音声録音の仕事を経てアメリカに渡米して今は仕事をしながらとても楽しく暮らしていると話してくれた。その後も食事に行く機会があり、気がついたら結婚することになっていた。残念ながらビビビとは来なかったがあれよあれよという間に話が進んだ。これは本当に省略したわけではなく、出会ってたった2週間の間にそう決まった。まるで何か強い力に背中を押されているように。

ちょうどアメリカ永住権の手続き中だった彼は、結婚することをアメリカ大使館に問い合わせたところ今は絶対そういう事はないと思うのだが今すぐ入籍して面接に連れてきたら妻にも永住権を発行しましょうというさらに拍車をかける展開になった。入籍の報告で初めて私の両親に会い、急いでいろんな書類を準備してアメリカ大使館に行き数ヶ月後に渡米しても良いという通知を送るのでそれまでは妻の方は日本で渡米準備をしなさいというような事を言われたと記憶している。その時に英語が全く話せずアメリカ大使館でめちゃくちゃ怒られたのをものすごく覚えている。「アメリカに行きたいのなら英語を話しなさい」と日本語で怒られた。

中学時代の親友とご家族のことは私の両親も良く知っていてそのいとこということで両親は突然の報告にも関わらず一切反対はしなかったというかそんな隙もなかった。唯一、短大時代の友達が「本当に大丈夫なの?」と心配してくれたが何か強い力で背中を押されている私は何の迷いもなく初めての海外旅行で海外移住というクレージーなプランに突進した。今、もし誰かがそういう事を計画していたら全力で反対する。電撃入籍を経て色々な手続きなどを終えたところで友達のいとこから夫となった彼は先にアメリカに戻った。アメリカ大使館からの通知は半年から一年かかると言われていた。当時子供服のバイヤーと販売の仕事をしていた私は勤務先にもそろそろ辞める事を伝えなければと思っていた頃、私のお腹の中では小さな小さな娘が育ち始めていた。

初めて行くアメリカで初めて暮らして英語の勉強をして大学も行けたらいいなあという夢はつわりという恐ろしい現実で打ち砕かれた。それでもアメリカ大使館から通知が届き次第、すぐ渡米する気は変わらなかった。つわりに苦しみながらアメリカの夫に電話すると「僕たちの子供が産まれるの!それは面白い」と相変わらずポジティブだった。つわりが酷く水しか飲めなかったが休み休み仕事もして渡米前に両親の住む父親方の実家のある田舎への引っ越し準備もした。私のつわりもようやくおさまりつつある頃、アメリカ大使館から通知が届いた。急いで飛行機のチケット片道で購入する際に旅行者の人に妊娠中期なので私が乗るアメリカ航空会社から書類にサインさせられるかもと言われた。よく理解できなかったが結局飛行中に万が一のことが起きても航空会社は責任を負いませんというような内容だったと思う。

このチケットを購入に関しては不思議なことが起きた。本当は10月17日の出発で時差の関係で10月17日の日付でアメリカ入国と予定して航空券を購入した。片道航空券を妊娠中で不安だったのでビジネスクラスにした。もう30年以上経ち、記憶も薄れているがその10月17日出発を翌日に旅行社に電話をしてなぜか1日ずらした。どうしてずらしたが本当に謎だが旅行会社に連絡してお願いしたことはよく覚えている。

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出発の朝、実家でテレビをつけているとサンフランシスコで起きた大地震のニュースが入った。その瞬間、短大時代の友達からも電話が入り「大変なことになってるよ。アメリカ行かないほうがいいよ。」今まで何も言わなかった両親も心配そうだ。私はすぐにアメリカに電話をかけた。彼はサンフランシスコから車で20分くらいのところに住んでいた。こっちは深刻だったのにいつもと変わらないポジティブな声がすぐに出た。「あーうどん茹でてたらお湯が溢れておかしいと思ったら地震だったよ。でも電気も消えてないし、全然大丈夫。明日空港にちゃんと迎えに行くからね。」それを聞いて私も両親も大丈夫なんだと思いものすごい火災現場のニュースを横目に実家を出発した。インターネットも何もない時代。ポジティブ夫の言葉しか情報がなかったのだ。

関西空港はその時、まだオープンしていなかったので伊丹空港まで両親が送ってくれた。チェックインカウンターあたりがものものしい。テレビ局も来ていてなぜかインタビューされた。「サンフランシスコで起きた地震ご存知ですか?」「はい知ってます。」「なぜこんな時に渡米されるのですか?」「現地の夫と話せたので問題ないと思います。」そんなやりとりをテレビカメラの前でしたのを覚えている。恥ずかしすぎる。もしその時の映像がまだどこかにあるなら溶けて消えて無くなってほしい。

今思えば両親は心配でたまらなかったのだろう。でも娘が決めたことだと応援してくれて笑顔で見送ってくれた。親不孝者の私は両親にきちんとお礼も言わずアメリカにとにかく飛ぶことで頭がいっぱいだった。初めての海外旅行。飛行機の中でアナウンスが聞こえた。「当機は出発致しますが現在サンフランシスコベイエリアで起きた大地震のためにサンフランシスコ空港に着陸できない可能性もございます。近辺の空港にやむなく着陸する可能性もございますのでご了承くださいませ。また情報が入り次第、お知らせいたします。」それを聞いて私はやっととんでもないことが起きているとわかったが既に飛行機は離陸していた。

妊娠中に飛行機に乗ったのは、あれが最初で最後だったが身体中が浮腫み歯茎まで腫れているような感覚だった。英語もあまり話せない私にビジネスクラスのパーサーがオレンジジュースを何度も運んできてくれた。乗った時だったか乗る前に例の書類2枚ほどにサインしたと思う。後日わかったのだがあの地震の後、サンフランシスコ空港行きのフライトは全てキャンセルになったのだが私の乗った伊丹空港発のフライト一便だけサンフランシスコ空港に着陸した。私がほっとしたのも束の間飛行機から出て空港が停電で真っ暗だったので驚いた。お昼前に着いたのだが大きな国際空港のはずなのに人がいない。天井の電気は全て消え天井が一部破損している場所もあった。携帯電話などまだない時代、とりあえず移民局と税関を通らねばと必死に進んだ。

税関では失敗した。私は日本を出る前に両親が持たせてくれた2個のみかんを食べずにそのまま持っていた。パーサーが30分おきにオレンジジュースをくれたのでみかんを食べるチャンスがなかった。カバンをチェックした税関の係員のお兄さんが「これはフルーツじゃないか。」私がフルーツなどは持ち込んでは行けないと何かに書いてあるのを思い出して真っ青になった。ところがその係員が「おーい、君の妹が来たようだよ。」と別の係員に話しかけ「おーその子は俺の妹だ。俺の妹だからいいんだいいんだ。」とジョークを言いながら没収もせずに通してくれた。一瞬だけ緊張がほぐれた。税関でジョークを聞いたのはそれが最初で最後だった。

よろよろとスーツケースを引きずって出発前に空港のここで待っているようにと言われたであろう場所になんとかたどり着いた。どんどん不安になる。来るんじゃなかった。その頃、夫はなぜかその日に予定通りウェディングをあげた日本人カップルの結婚式の撮影で金門橋の反対側の街にいた。ベイブリッジが通れなくなり、あちこちで停電と火災が起こり混乱している事を彼は私が飛行中に知ったのだ。家に電話してもつながらないし、ひたすら待つしかなかった。4時間は待ったと思う。やっと迎えに来てくれて2時間ほどかけて随分遠回りをして家に到着した。「ここ美味しいんだよ」と初めてのディナーは停電の中、なぜか営業していたチャイナタウンのお店でワンタンスープを食べた。ブルースリーの映画で出てきそうな古い小さなお世辞でもきれいとは言えないお店。隣のテーブルではおばあさん2名が広東語で怒りながらワンタンを包んでいる。あまり食のすすまない私に夫が「昨日だったら着いてからあちこち観光して夕方5時過ぎにうちに帰ろうと思っていたんだよ。もしそうだったベイブリッジで車ごと落ちていたかも。人生わからないもんだね。」

航空券を1日ずらしたので私は地震の翌日に着いた。それが1989年10月18日。それからいろんなことがあって私は残念ながらこのポジティブな男性とは離婚した。でもたまに会えば話すし、去年も娘と日本で3人でご飯を食べたりして別れた夫ではあるが今でも家族だと思っている。

長くなってしまったが今回ゆっくり色々と思い出しながらこの記事を書いた。日本にいた時間よりもうアメリカにいる方が長くなってしまった。人生いつ何が起こるかわからないけど残りの人生は、もう少し慎重に生きていこうと思う。

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