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セブ留学後に海外就職してみたら1年半でクビになったのでプログラマになってみた

セブ語学留学を経て現地採用としてフィリピンマニラで海外就職してみたらクビになったので、プログラマとして転職してみた話。

そもそもどうしてセブ留学をしてみたかというと、大学生の時に参加したNPOでインドネシアに行ったことが大きなきっかけだったと思う。今でこそカバン一つで身軽に海外に行くなんて当たり前になってしまったけれど、当時はパスポートも持ったことのない、もちろん海外に行ったことなんてないつまらない大学生の一人だった。

ファーストキスならむファースト海外としてインドネシアに行くという我ながらよくわからない選択をしたものだ。地元の友達なんかは初海外はバリとかハワイとか南の島か(そういう文脈でいうとインドネシアも南の島だ)、卒業旅行でヨーロッパとかアメリカとかそういうとこだよね。初海外インドネシア!自分でもよくわからないし、初海外に大きな不安とちょっぴり興奮を覚えたのだった。

インドネシアで何をしていたか簡単に言うと、自国インドネシアのゴミ問題を憂いた女性インドネシア人の起業家の手伝い全般。その時に日本人大学生だけでなくインドネシア大学生も加わって一緒に改善活動をしていた。参加していたインドネシア大学生は皆優秀で英語をペラペラ話していた。この時自分の意見を英語でほとんど伝えられないもどかしさがとても恥ずかしかった。「まあ途上国だしと思っていたインドネシアの大学生たち」が遥かに自分よりも優秀で、「何コレ。こんな同世代がいて俺は何してるの?」と危機感を覚えた。

この時強烈なコンプレックスを覚えたのは確かなのとどんどんビルが建設されていく町並みを見て、「成長している雰囲気」をもろに感じてワクワクした。初海外インドネシアをきっかけに日本以外の海外に興味を持ち、「知らない世界を自分の目で見て見たい」と卒業旅行で東南アジア、ヨーロッパにバックパックをしてみた。ヨーロッパと東南アジアの国を比べて、圧倒的に好きだったのは東南アジアの成長している熱い空気だった。東京にあるような高層ビルのすぐ近くに今にも壊れそうだけど人が住んでいる民家がある。そんな光景を目の当たりにして、東南アジアで働いたら楽しんじゃないかと漠然とした気持ちを持った。

すでに大学4年生で就活は終了しており、今更「会社辞めます!!!」なんて言えない臆病なかぬーはそのまま東京のベンチャー企業に就職。最近新卒で「1週間で辞めました」なんて記事をみるとなんて決断力があるんだと感心してしまうくらい。ほとんど英語を使う機会もないまま悶々と海外に出ようと思いながらも全然英語の勉強はしないし、日々をなんとなく過ごしていた。

ふとしたきっかけで「英語もできないノースキル文系はこれからどうするべきか」を読んだのだ。その中でセブの英語語学留学の話を聞きつけて、「これだ!!!」と思いセブ視察に行くのだった。そもそも就活生向けの本だったので、「イマサラ?マジで遅くね?」という話。でも衝動を抑えきれず会社の有給を使ってセブに3泊4日に突撃!後々通うことになるサウスピークへアポなし訪問。入り口にいた警備員にアポないと入れないよと一蹴される。仕方ないのでサウスピークの問い合わせホームから見学したい旨を連絡すると、見学する前にいくつか質問に答えてくださいという返信メールが。ホテルでダラダラしていたかぬーはメールの文面だけ見て速攻で挫折。学校見学に行ったのに結局見学できずに帰国することとなる。「有給使って何しにセブまで行ったんだ。」というツッコミをしつつ、久しぶりに途上国の空気を感じてますますセブ英語留学へとひた走るのだった。

「僕会社辞めます」と高らかに宣言をして、心機一転セブ英語留学へいざ。

※TOEICを受験していた会場

英語語学留学中には、なぜか「英語語学留学に来たのだからTOEIC800点はないと転職できない」というわけのわからないマインドセットによって自分を追い詰める。当時留学をしていた留学生仲間からは鬼のような顔をしていて話しかけづらかったと言われた。転職できるのかという不安と戦いながらも、偶然にもフィリピンマニラでIT企業からオファーを貰うことに成功!フィリピンは英語が通じるのと、これからはITの時代だと意気揚々とフィリピンマニラへ。

始めの3ヶ月は慣れることに必死だったが、フィリピン人の陽気な性格と南国の機構が大好きになった。スギ・ヒノキの花粉症を持っているかぬーにとって花粉のない世界は最高だった。久しぶりに花粉を浴びてくしゃみが止まらないことを経験した時には、自分が花粉症であったことを忘れていた。

※マニラで住んでいた地域のボニファシオ

IT企業に入って初めての仕事はゲームの企画・運営のお仕事でした。辞めるまでずっと携わっていた感想としては。。。つまらない笑
ソーシャルゲームで課金してるみなさんごめんなさい!相手するの大変でした!
振り返ってみるとゲームだけに携わっていたわけじゃなく業務アプリ作成のマーケティングや仕様決めをやったり、なんちゃってVR事業に携わってみたりと思えば1年半という短期間ながら色々な経験をさせてもらったなと。ど素人が業務アプリの機能の仕様を決めたり偉そうにエンジニアに指示を出したり。「こういう機能があった方がユーザーには便利なはずだ」とかを英語で言ってみたり。

そんな中でもっとエンジニアのことを知りたいと強く思うようになる。
どうやってプログラムって書かれてるの?
もっといいアプリを作るには実際にコード書いた経験あった方がよくね?
エンジニアってスキル積み重ねれてキャリア的においしくね?
サーバーサイドの言語を一通りできるようになれば、次はAndroid・iOSと次々増やせて幅広がるじゃん。

だから。

フィリピンマニラにいるのに、日本のプログラミングスクール通っちゃいました。
6ヶ月約70万円。高い!!!めちゃくちゃ高い!!!
これちゃんとやらないと元とれないわと思って、そこそこ必死にやりました。
もうそれこそ就業中にも。あれ?違うか。会社終わった後とか土日とかを使ってコツコツ進めました。

2016年の11月から通うことにしたのだけれども、黒い画面(ターミナル)を出してる俺カッコイイと自分に酔いながら2ヶ月経った2017年1月某日の全社会。

現地会社社長:「親会社との資本提携が切れたので事業縮小します。」

かぬー:「え???何それ。聞いてないんですけど。」

かぬー:「え?」

かぬー:「そんなこと聞いてないんですけど」

猫もびっくりです。

なんとなく社内の不穏な動きから予想はしていたのだけれど、従業員の大半をクビにするってよ。
1月末日で100人くらいが急に辞めることになりました。
そんなことある???と覚悟はしていたものの頭が真っ白になりました。

そんな横で「ByeBye!Thank you!」と記念撮影をし始めるフィリピン人。なんじゃそりゃ。
究極のポジティブ。いや、君仕事無くなるんですけど。大丈夫?

そんな全社会の会場を後にして社内に戻ると、仕事を続ける人と契約打ち切り(クビ)宣言をされる二つのグループに分かれることに。
屈強で怖そうなフィリピン人のガードマン(外部)が入り口を全て塞いでトイレに行く以外は外出できなくなる。
なんてこった。これから何が起こるんだ。

社内は物々しい雰囲気、、、ではなくフィリピン人たちが「さよなら〜」的な、何か卒業式を思わせるかのような空気でした。
写真は撮るし騒ぐし。フィリピン人明るくポジティブすぎて最強だと改めて気づかされました。
これが普通の日本企業で日本人だけだったら全然違う空気感なんだろうなと。
正直「マジかー」とは思ったものの、少しこの事態を想定していたこととフィリピン人の底抜けの明るさに助けられて精神的には割と落ち着いていた。

1月末日で契約打ち切りの人とそれ以降も残る人。僕みたいに案件の区切りで契約打ち切りの人と様々でした。入社した時に200人くらいいた従業員がどんどんいなくなり僕が辞めた頃には40、50人くらいになっていた。3月末に案件を終えた。3月末日退職だけど4月の給料は出るということだった。せっかくなので1ヶ月プログラミングの勉強しつつ、旅行したり、事務処理したりゆっくりと過ごした。ついでに求職したり、ビジネスを考えたりしてみた。

5月から鎌倉でプログラマすることになりました。転職しました。マニラでの現地採用辞めました。

急すぎるんですが、こういう会社の展開も見据えてプログラミング(Ruby on Rails)の勉強もしていてフリーのプログラマになって「ばりばり稼いでいくぞ」なんて思っていたので、1月から転職するまではこつこつ勉強しながら平行して、次のための準備、転職活動など。

プログラミング知識0から転職してプログラマになるまでの軌跡をすこし語ろう。マニラのIT企業に勤めるまではITとは全く無縁の会社にいた。転職した先のIT会社でもプログラマとしてコードを書いていたのでなく、企画職だった。なので全くのプログラミング素人がプログラマとして転職するまでに至ったということだ。

プログラミングスクール通う前のスペック
・27歳
・HTML、CSSの理解は多少ある
・英語を話せる(プログラミングには関係ない)
・バックエンド、フロントエンドという言葉が一応わかる

プログラミングスクール通った後のスペック
・27歳
・HTML、CSSの理解は少しある
・英語を話せる(プログラミングには関係ない)
・Ruby on Railsでアプリを作成した

そうです。Ruby on Railsでアプリを作成したぐらいしか変わりはありません。たった半年だとそんな劇的に変わりません。巷にある1か月でプログラマになんてそんな甘い世界ではないよ。もちろん投下した時間にも比例はするけれども、人生かけるくらいのつもりで時間かけないときついと思う。具体的な目安としては週に20時間〜くらいできないときついかと。

転職活動で一応見せれるくらいのアプリは4ヶ月後くらいには完成してた。それでもある面接官からはチュートリアルを終えたくらいのレベルかなと評価されたけどね。つまりその程度の実力ってことですおすし。

実は転職活動でやったゴールとしては完全フルリモートでエンジニアとして働ける会社でした。
20社くらいに連絡して、結果は2社から良いお返事をいただいた。
1社は完全フルリモートのエンジニア。ただしアルバイトだけど。
もう1社はフィリピンに渡航する前提だけどエンジニアとして働ける会社。フィリピンオフィスを立ち上げるようなのでそちらのオペレーションも発生する。

Google先生に「未経験 エンジニア 求人」と尋ねると、「そんなもんはありません」と返される。
夢をみました。
現実的には全くないということはなく、探せばあるんじゃないかなと思った。確かに少ないだろうけど。
実際に完全フルリモートのエンジニアアルバイト見つかったし。

仕事探しでやったこと
・まずは動くあアプリを作る
・githubとかにコードをあげる
・履歴書と職務経歴書を送るメールに作成したアプリを共有する(github)

実はエンジニアとして未経験というところは意外とネックになることはなく、大きな関門として立ちはだかったのが帰国できるのかという点だった。
かぬーはマニラで生活をしながら、フルリモートのエンジニアとして働くことを目指していたのでだいたい面接の時に「フルリモートで働きたいんですけど。。。ゴニョゴニョ」と言うと、だいたい「むむむ???」という空気になる。最初からそういう想定をしていないので、それは僕が悪いですよね。そりゃ。めちゃくちゃエンジニアとして仕事できるわけでもないし。書類で落とされることはほとんどなかったんだけど、面接で「海外でフルリモートで働きたい」というと「んんん??」という反応になったので、途中から戦法を変える。メールに「アルバイトでもインターンでもいいので、フルリモートで働けませんか?」と初めから自分の希望を書いたのだ。

そんな文面をメールに書き殴るとどうなるか。
「弊社ではフルリモートでの採用は致しかねます。・・・かぬー様のご活躍をお祈り申し上げます」というお祈りメールをもらうことが増えました。
そうですよね。はい。わかってました。

その中でなんとか面接までたどり着いて採用まで至ったのだから、ちゃんと探して話し合えばいけるもんだなと実感した。悩んだ末に一度日本に戻りエンジニアとしてのスキルを上げてから再度海外に出ようと帰国を決意。

あっという間に過ぎ去った海外生活だったけど、海外で再び(楽しい)生活をするためにスキルを身につけていこう。

鎌倉でのプログラマとしてのキャリアが始まったのだった。まる。

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