見出し画像

落ち込んだ気持ちと向き合い思うこと

1年前、この地に赴任してきたころとなにも変わっていなくって迷いと悩みと葛藤の日々。


1年も経てば慣れるだろう。
そうたかをくくっていたけれど生きにくさを感じるほどの感受性の強さを持って生まれた私にはまだまだ"慣れ"はやってこない。


あと1年もある。あと1年しかない。

日本に残してきた快適さや大切なひとたちに会いたいときに会えるそんな穏やかな暮らしを思うと、日本に帰るまで"あと1年もあるのか~"と思う。

その一方で、ここでなにがやれたのか、成長できているのか、この土地と人々になにか残せるものはあるのか、あと1年後自分はどう生きていくのか、自分がここに来た意義とか価値とか爪痕とかそんなことを考えると"あと1年しかない"と焦燥感でいっぱいになる。

1年が経ち、慣れたこともたくさんある。
暮らしのなかでの驚きや戸惑いを感じることはほとんどなくなったし、多少の負の感情は"文化が違うのだから仕方ないな" "環境が違うのだから仕方ないな"そうやってなんなく受け止められるようになった。

その一方で、自分が踏み込める範囲や変えられることの限界、根深いところにある課題の原因を客観的にとらえられるようになるとともに、"私はなにをしにここに来たんだろう"そんな問いが芽生えてくる。

一時帰国から戻り、2年目のはじまりに向け、この1年のテーマを決めた。

"自分がなにを学び、感じ、経験したいか、自分を主体に考え進み続ける。"

だれかが自分のことをそばで評価し、導いてくれてくれるわけではないこの2年間。
だれも正解は教えてくれないし、だれもその答えを持つ人はいない。
自分で自分の道を決め、自分で評価し、時に修正を積み重ねながら進んでいくしかない孤独で不安定な環境。

だからこの1年間、自分でどう進むか、道しるべを立てる必要があった。

"自分を主体に"そう決めたものの、自分の軸がぶれはじめていることに気付いた。

自分がなんのために、どんなことを学びたいのか、どんな風に成長したいのか、全くわからなくなってきていた。


10年前、国際協力を仕事にしたいと思うようになった。

なんの特技も取り柄もない自分。
それでも世界トップレベルの恵まれた環境に生まれ、学びのチャンスと自分の人生を自分で決められる環境があった。

生まれ落ちた場所が違うだけで、人生が大きく違うことを知って、自分に与えられたチャンスを世界の人々と分け合いたいと思うようになった。


"国際協力"には、開発や緊急支援大きく二つの分野がある。

体より先に頭で考える頭でっかちの私は、開発の分野に進もうと思った。

それでも国際開発について知っていくなかで、ただ開発を進めることが正義なのか疑問が生まれた。

開発によって可能になる便利な生活、その一方で失われる多くの文化や土地や自然環境があることに違和感を感じた。

普遍的で、だれもが必要とする幸せの要素とはなんなのか。

そう考えるなかでたどり着いたのが"保健"だった。

健康であることは、どんな文化習慣環境のなかでも生きることの根底にある。
そして、健康に関わる発展は彼らの文化や土地や自然環境と共存しうるように感じた。


人々のなかにある"健康"の定義や価値観を大切にしながら、人々が自分の健康と向き合い自ら考え、対処できるようになること。
そして彼らの文化や習慣、価値観の保護と共存させること。

それが私の目指す形だった。


遠くにそんな目標を抱きながら、青年海外協力隊になった"つもり"だった。

1年前、任地に赴任した私は焦りでいっぱいいっぱいになっていた。
ベテランスタッフばかりの配属先で、"何しに来たの?"と尋ねられ、現地語はおろか英語もつたない私は、このままでは存在意義を示せないとただただ焦っていた。

それからは焦りに任せ、手当たり次第できそうなことに手を出すようになった。配属先の人々に受け入れてもらうため、認めてもらうため、2年間で存在意義を見いだすため、そればかりを優先してもがき続けた。

そのうち半年くらいがたち、自分のできそうなこと、やってもよさそうなところが定まり、配属先での日々の過ごし方もある程度決まり、周囲の人々も私がなにに取り組んでいて、どんな役割を担っているのか認識してくれるようになってきた。

ひとまず焦りから解放され、自分でもこれでいい、そう納得しはじめていた。

でもこの1年間で目指したもの、達成したものは焦りからの解放で、ここに来る前に遠くに描いていた自分の理想とは別の方向を向いていた。でもそれに気づいていなかった。


それからまた半年が経ち、一時帰国を終え、2年目がはじまった。


楽しかった一時帰国。
その反面、自分が日本に残してきたものの価値の大きさを見に染みて感じる20日間だった。


自分の人生には自分で責任をとる。
家族の反対、看護師としてのスキルアップ、友達と会える環境、恋人との時間、すべてを手放して10年前に抱いた"夢"に向かってスタートを切った。

お母さんは私を心配して、仕事を長期間休みザンビアまでやってきた。
30年余りの教師生活で、学期中にこんなに長く休みを取ったのは産休以外にはじめてだったと思う。英語も話せず、新婚旅行以来海外に出たことがないお母さんがこんなに遠くの国まで来るなんて、よっぽど私のことが心配だったんだろうと思う。
それでも私の選択をそっと見守り応援してくれている。

尊敬してやまないおじいちゃんがガンになった。私が小さいころ、海外旅行に行って世界のお土産を買ってきてくれたおじいちゃん。定年後は写真の全国展覧会に何度も入賞したり、検定を取って新しい仕事をはじめたり、70代でパソコンとスマホを使いこなす、そんなおじいちゃん。いつも話を聞くのが楽しみだった。おじいちゃんにアフリカ行きを伝えたとき、"中学生のときから言ってたからな"そういって引き留めることはせず送り出してくれた。
一年ぶりに会ったおじいちゃんは、ベッドで横になり頬はこけ、ひとりでトイレに行くことも難しくなっていた。
看護師として、たくさんのひとが命の終わりに向かって進んでいく姿をみてきた。それが長いか短いか、どんな姿でどんな思いで迎えるか、それは人それぞれ違うし、それにどう寄り添うか、それを考えるのが私たちの仕事だった。一生懸命向き合い関わった患者さんの顔をいまでも時々思い出す。患者さんにしてきたこと、できたこと、それをいま私は大切な家族にたいしてできずにいる。赤の他人のだれかにできたことが、家族にできない。それがもどかしくて苦しくてたまらない。

一年ぶりに再会したのに、いつものように迎え入れてくれた恋人や友達。楽しくて穏やかで幸せな時間だった。


一時帰国を終えて、日本で暮らしていたとき周りにあったすべての幸せや穏やかで安定した暮らしを手放したことの大きさを改めて突きつけられた。

日本への未練を経ちきるために、動き出さなければ、また焦りに任せてもがく日々がはじまった。


そんなときいいのか悪いのか任地訪問の依頼が立て続けに舞い込み、なかには配属先との調整と準備が必要な大きな依頼もあった。

立ち止まっていることを許されない環境に身をおき、なんとなく日本への未練から目をそらせるようになっていた。

そんななかで治安の悪化でザンビア国内で身動きが取れない状況になった。

同僚からも危ないから町には近づくなと言われ、ひとりでは身動きがとれなくなった。
同任地の隊員も近所での銃声を聞いたり、同僚たちも怯えていた。

他の任地の隊員は1ヶ月以上も首都退避続いていた。

1月から準備を進めていた受け入れも中止が決まり、同僚とともに参加予定だった研修中止になった。


先を見据えて計画しても周囲の状況次第ですべてが無駄になる。
そんなことが容易に起こりうる環境に身を置いていることを痛感させられるできごとだった。


治安の悪化は落ち着いたが、そのあとを追うように新型ウイルスの拡大がアフリカにも押し寄せてきた。

保健省からは頻繁に啓発のショートメッセージが国民に一斉送信され、配属先はじめ保健関連施設では頻繁に啓発活動を行っている。

毎回のように強調される"中国から来た"というメッセージ。アジア人はみな中国人と認識されることが多いこの国では、中国に対するネガティブメッセージを聞くたび、からだが強張る感覚に陥る。

"チンチョンチャーン""チョンチョリ"という中国人を揶揄することばに加え、"コロナ"と罵声を浴びることも増えた。

時には英語を流暢に話す公務員からも"君はコロナウイルスだから握手はやめといたほうがいいね"と言われたこともある。 私が反論すると、彼はただの冗談だよと言ったけれどモラルが低くヘルスリテラシー、情報リテラシーが発展途上のこの国で、新型ウイルスの発症が確認されようもんならアジア人が暮らしにくくなることは避けられない。

そんなマイナスな出来事が重なるたび、日本への未練が強くなるのを感じる。


必要としてくれる大切な家族
会いたいひとたち

夢やキャリアを優先したことが本当に正しい選択だったのだろうか。


"世界は変えられない"
そんなことはわかっていた。

それでも世界のだれかに寄り添いたかった。

でも現実を知れば知るほど、なにが正しいのか自分の軸がぶれていく。

都会と田舎のまんなかのような私の任地では、農村で暮らす人と町で暮らす人、両方が対象者になる。

農村で暮らす人々のなかには、学校に通ったことがないひと、不便な生活を送る人、子どもを何人も病気で失ったひと、そんなひとがたくさんいる。それでも家族がいて、伝統的な帰属集団とそこでの役割があり、家畜と農地があり、助け合いと拠り所がある。

一方町で暮らす人は、病院や学校へのアクセスはよく、買い物をする場所も近くにある。
確かに豊かな暮らしを営むひとも多い。お金を稼ぐことができるひとは富み、お金が得られないひとは貧しくなる、そんなお金に依存した格差にあふれた社会がある。

豊かな農地
伝統的な文化や習慣
地域社会や家族への帰属

福祉の整っていないこの国では、それが最大の社会的な保障になりうる。

そんな仮説が確信に変わる瞬間がこの一年でなんどもあった。

農村では自然環境の影響を受けやすく、命を失うリスクも高い。

それでもそのために伝統的な祈りや呪いの文化があって、地域社会の強いつながりがあった。
困難を乗り越え、ともに助け合うシステムが形成されてきた。

医療をかじった者として、近くに医療機関があれば救えたはずの命が失われることは悲しいことだけれど、生涯にわたる福祉や保健サービスが整っていないこの国では、かろうじて命を救ったところで未来が明るいわけではない。

免疫が弱ければその後なんども命の危機に苛まれることになるだろうし、障害を抱えながら生きるには厳しすぎる環境だ。

開発や発展には光と影がある。
それは十分理解していたつもりだった。

でもここに来て、その影のかなで生きる人々と直接関わるようになりお互い顔と名前を知る存在になった。

ときには影を無視し、大勢の利益を優先することも必要なのかもしれない。

でも私にはそれはできない。

もうなにが正しいのか、ここでなにができるのかがわからない。

そうなったら私はなんのためにあらゆる幸せを手放しここにいるのか、家族がピンチのときに遠くのだれかのために心を悩ませていていいのだろうか、そんな思いになってくる。


とりあえず考えるのをやめて、目の前のことに集中しよう。そう切り替えを試みてみるものの、迷いが大きすぎて根深すぎてどうもうまくいかない。

この暗くて長いトンネルもいつか抜けられるときが来るのだろうか。
終わりが見えないトンネルを歩き続けていていいのだろうか。
その先になにがあるのだろうか。

とことん落ち込んでいるここ数週間。

いくつになっても自分のやりたいことをぶれずに突き進めているひとは本当にすごい。

信念と行動力さえあればなんとでもなると思っていた数年前の私。
そんな簡単なことじゃないみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?