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ウクライナ:CIAの75歳の代理人 ⑵

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OUN -ウクライナ民族主義者組織

 1939年8月のOUN党大会は「民族的に統一された」国家を要求したが、この概念は1941年以降、「民族のすべての敵に対する浄化作戦」へのコミットメントとともにエスカレートしていった。約150万人いたウクライナのユダヤ人は、OUNのウクライナ反乱軍、ウクライナ警察、そしてウクライナ市民に支持されたドイツ軍によって、事実上全滅した。OUNはウクライナのファシスト、ナチス、その他の過激派で構成されていたが、スロバキアのフリンカ警備隊、第14SS武装擲弾兵師団 (ガリツィア、Galizische(SS-WGD) )のウクライナSS、傭兵ドイツSSも含まれていた

 ポーランド人の大量虐殺(推定10万から20万人)は1943年にエスカレートし、ここでもUPAが積極的に参加した。OUN-UPAはまた、ドイツ軍と協力して、数千人のウクライナ系ロシア人を根絶やしにした。その「首相」を自認するヤロスラフ・ステツコは、ロシア人をモンゴル人とフン族の子孫である野蛮な非ヨーロッパ民族として描いた

 戦後、アメリカはステツコと密接に協力することに何の問題もなかった。ステツコは自身の伝記(1941年)の中でこのように書いている。
「私は、マルクス主義はユダヤ人の心の産物であり、それがユダヤ人の援助を受けて、ムスコビト=アジア人により人民の監獄に適用されたものであると考える。モスクワとユダヤ人は、ウクライナの最大の敵であり、腐敗したボルシェビキの国際思想の担い手である..... したがって、私は、ユダヤ人の滅亡を支持し、ドイツの方法をウクライナに持ち込む便宜を図る。すなわちユダヤ人を絶滅させ彼らの同化を禁止するのである。」と書いている。

ABN司令部のレセプションで会話に興じるジョン・K・シンラウブ夫妻とABN大統領ヤロスラウ・ステツコ閣下、ブルガリア元国務長官D.ヴァルチェフ博士。[twitter.comより]

 ステツコの狂気も、ナチスの死の収容所も、強制収容所で死んだ300万人のロシア人捕虜も、ドイツと連合軍の侵略の完全な野蛮さも、アメリカ当局者の思考の軌道を変えなかった。それは高位のナチスとファシストが、ソビエト社会主義に対するアメリカの戦争にとっていかに役立つかという考えである。ステツコはワシントンで大歓迎を受け、ロナルド・レーガンやジョージ・H・W・ブッシュから、もともとはナチス・ドイツが結成した反ボルシェビキ・ブロックの尊敬される指導者(スティーブン・ドリルによる指摘)、世界反共主義同盟のABN常任代表として歓迎された。

後進復帰(ロールバック)

 1950年代初め、85人の諜報員をウクライナにパラシュート投下で送り込み、その4分の3が捕虜になった後、CIAはこの計画が大失敗だと認めることになった。しかし、10年後のピッグス湾事件のように、他の場所で、冷戦屋による政権転覆のための傭兵利用は止まなかった。ウクライナの反乱運動が鎮圧されると、OUNの創設者の一人で、ゲシュタポから冷酷な拷問方法の訓練を受けたバンデラ中尉のミコラ・レベドを含む多くのバンデライトが、国外に移住したのだった。

ミコラ・レベド  [encyclopediaofukraine.com より]

 組織の外務大臣と悪名高い秘密警察のトップを務めたレベドは、米軍から「よく知られたサディストであり、ドイツ軍の協力者」と評された。彼は戦後ミュンヘンに移住し、そこで新しく結成されCIAが秘密裏に運営していたラジオ自由ヨーロッパ(RFE:東ヨーロッパに発信する米国の資金によるプロパガンダ機関)で重要な役割を果たした。RFEはラジオ・リバティー(これもCIAが運営し、ソ連に向けられた)とボイス・オブ・アメリカとともに、プロパガンダ放送だけでなく、「背後にいる」破壊工作員への一方的な暗号メッセージの中継も行っていた。

[ journalismisnotacrime.org より]

 戦時中、レベドはドイツ・ゲシュタポの良き教え子であり、お気に入りだったという。ミュンヘンに移ったレベドは、ナチスの情報将校でCIAと密接な作戦上の関係を持っていたラインハルト・ゲーレンの庇護を受けた。バンデラがそうであったように、だ。

 ゲーレンは後に西ドイツ情報部のトップとなり、戦時中に一緒に働いていたナチスを採用し、東欧の情報を共有してCIAに協力した。レベドが戦後ドイツのOUN-Bと対立したとき、CIAは、彼をはじめとする多くのウクライナの超国家主義者をアメリカに密航させた。

ラインハルト・ゲーレン [ww2db.com より]

 CIA長官アレン・ダレスのお墨付きで、レベドは反ソビエトの諜報員として偽名でニューヨークで働き(裕福なウエストチェスター郡に住んでいた)、市民権を得たのだ。当時も今も、極右のウクライナ人は、冷戦政策の道具として長い間使われている。CIAは1950年の最高機密文書に「現在米国にいるウクライナの地下組織の元メンバーは、実行可能な限り最大限に利用される」と書いた。

アレン・ダレス [wikipedia.org より]

 冷戦初期、SS将校オットー・フォン・ボルシュヴィング(最終解決の主要な組織者でアドルフ・アイヒマンの補佐役)などの戦犯を含むナチが、ドイツ、ウクライナ、バルカン、バルト諸国、ベラルーシから、数千とは言わないまでも数百人、アメリカに持ち込まれた。

オットー・フォン・ボルシュウィング [wikipedia.org より]

 その中には、アドルフ・ホイジンガーも含まれていた。「米国の軍事・情報ネットワークに組み込まれた多くのナチス高官のファシストの一人 」であった。ホイシンガーはヒトラーの陸軍参謀長を務め、1961年から1964年にはNATO軍事委員会の議長に任命されており、ナチスの高官から 「自由世界」の軍事指揮官になるのは流れのままであったと言える。

アドルフ・ホイジンガー [ wikipedia.org より]

 一方、OUN の完全な支配を求めるバンデラの要求は、ドイツを拠点とするファシスト指導部内で摩擦を引き起こしていた。1950 年までに米英はウクライナへの共同作戦を計画していたが、この時点で CIA は ZP/UHVR (ウクライナ最高解放評議会の外国代表、すべての右翼民族主義組織の統括組織)とより緊密に協力することを決め、英 MI6 はウクライナ人との主要な連絡先としてバンデラを採用した。

 米国がバンデラを戦争犯罪でソ連に引き渡すことを拒否した後、1959 年にバンデラが暗殺されたとき、ステツコがOUN を引き継いだ。

 1991年のソ連崩壊で、米国はついにロシアを手中に収めたと思った。エリツィンの独裁的な、ウォッカが主導する支配のもとで、米国は新自由主義の「ショック療法」プログラムを導くために招待され、その結果、ロシア経済は完全に破壊されたのだ。

[medium.com より]

 アメリカ型資本主義は、大量の失業、賃金の低下、年金の喪失、オリガルヒによる以前の国営産業の寡占化、格差と貧困の拡大、アルコール依存症の増加、寿命の大幅な低下など、深刻な不況を引き起こした。

 エリツィンがいくらか抵抗したものの、クリントン政権はNATOをポーランド、チェコ、ハンガリーまで拡大させた。ジョージ・H・W・ブッシュとミハエル・ゴルバチョフの間で結ばれた、軍事組織を東に「1インチも」拡大しないという合意への違反である。この偽りの約束は、ドイツの再統一とそのNATO加盟を阻止しないためのソビエトへの譲歩であるはずだった。

[vhlf.orgより]

 以後、NATOの拡大は着実に進み、ウクライナは将来の加盟国と事実上の準加盟国に認定され、武器供与、武器訓練、ロシアとの戦争を想定したウクライナ軍との共同演習、さらには協力するウクライナの政治家の銀行口座などがもたらされるようになった。


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著者 ジェラルド・サスマン PhD.
ポートランド州立大学教授(国際・グローバル研究科)、ハワイ大学/マノアおよび東西センター、Branding Democracy: US Regime Change in Post-Soviet East Europe (2010)など著書多数

掲載 CovertAction Magazine
CovertAction MagazineCovertAction Quarterlyは、ニューヨーク州で設立された非営利組織 CovertAction Institute, Inc. のプロジェクトである。
1978 年から 2005 年まで発行された雑誌の全 78 号の完全なバックナンバー セットはこちら

翻訳元  https://covertactionmagazine.com/2022/09/12/ukraine-the-cias-75-year-old-proxy/ "Ukraine: The CIA’s 75-year-old Proxy"


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