家事と珈琲

家事がまったくもって苦でない。

幼少からの家庭環境、習慣によって
そういう大人の私が出来上がったのだと思っていた。

恋人と生活を共にしたとき
そのことで揉めたりすることもなかった。

忙しく通り過ぎていく日々の中で
家事を楽しんでいる自分に意識的に気づいたのは最近のこと。

仕事に忙殺されて
家のことができない時期があった。

心が荒んで余裕がなかった。

家事が趣味のようなところがあるのだろうか。
そんなふうに ちょっとゆっくり考えてみた。

自己紹介でも少し書かせていただいたのですが
ちょっと不便 なものを好むところがある私。

本当は、生きた商店街のある街で暮らしてみたいという願望。

野菜は八百屋さん
肉は肉屋さん
魚は魚屋さん
お茶はお茶屋さん

少しずつ寄って、顔見知りとあいさつや言葉を交わして
家路につくような暮らし。

わたしにとっての家事とは
やはり"いえごと"だから

家事が趣味というよりは
暮らしそのものが趣味みたいなものなのか。

別に はやりの"丁寧な暮らし"がしたいのではない。
特別物が少なくて、どこもかしこもピカピカで
そういうことではない。

私は私らしく、私の時間を生きていたいだけ。

毎日少しずつ
特に場所を決めるでもなく色んなところを掃除する。
自分にとっての"心地いい"を作っていく。

家事ができないことで心が荒むということは

家事は
自分の手で自分やそこに住む人に愛情を注ぐ行為そのものであるからではないか
というところに行きついた。

小さいほうきも、汚れてきたスポンジも雑巾も
みんな仲間のように思っている。

珈琲もコーヒーメーカーでなくて
豆を買ってきて 力を要して腕が痛くてもわざわざミルで挽く。

珈琲が趣味 なのではなくて
豆を挽くその時間も いえごとのひとつで
そうすることで珈琲一杯、その少しの時間が充実する。

わたしの自己満足のいくつかある中で
その最たるものが、家事なのかもしれない。

それでも、家事は
わたしごとで、きっとそこに住まう人に
愛情を伝える手段であると胸を張れる。

毎日できなくたっていい。
元気のない時は時々お休みすることも必要。

だけど

人間にとって身近で、日々の営みで積み重ねで
言葉に置き換えられる

それは自分に、共に暮らす人に
自分の手から愛情を伝えることができる手段。

いつだって自分に立ち戻れる
自分を保つお守りになるのではないか。


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