万人恐怖 富士の旅④

場所は移り浜松市へ。

浜松と言えばここも家康ゆかりの地ですが、義教も富士遊覧の痕跡を残してくれています。

浜松八幡宮

富士遊覧の際に義教はここに立ち寄り
植えられていた松を見て

「浜松の松はざざんさ」と謳ったそうです。

そこからこの松はざざんざの松と呼ばれるようになったそうです。

ざざんざの松

風流な義教の素顔を垣間見えるような…

また、浜松には足利義教の墓がある西伝寺があります。義教の死後に乳母が遺髪を埋めて供養塔を建てたそうですがこの伝承が記載された史料はわかりませんでした。。

足利義教の供養塔




話を戻して、文化人といえば父で3代将軍の足利義満、息子の8代将軍 足利義政はそれぞれ北山、東山文化を発展させた事で有名です。
ですが、義教も負けず劣らず、東山文化は義教から既に発展していたり、義教が明との貿易を再開させた事により、貿易から得る利益で東山山荘も築くことができたと知って義教こそ真の文化人なんじゃないかって思うようになってきました。

義教義政の親子2代に仕えた同朋衆もいるし、足利家のコレクション「東山御物」も義満から義教期に集められたものが主で、逆に義政の代で散逸してしまいます。

足利義教は万人恐怖の冷酷な独裁将軍のイメージが強いですが、風流を愛し、歌を詠み、純粋に楽しむ。1人の人としての等身大の義教が富士遊覧の旅から見えてくる気がしました。

続く。

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