見出し画像

IではなくWE👫

私は…さっきなおさなくてはと心に決めたのに
また「私は」というワードを使っている…

一人っ子かつ鍵っ子で育ってきた私にとって1人でいる事は当たり前だった。
兄妹でよくある「おかずの取り合い」や「おもちゃの取り合い」というものを
した記憶がない。
まぁ、基本的におもちゃを買ってもらう家庭で育っていないので、友達の家に遊びに行っては、リカちゃん人形やウサギの家と街の数々が羨ましかったのは覚えている。
そんなこんなで人間関係の構築も得意ではなく、友達関係を作り上げるのも苦手な方だったのかもしれない。
基本的に「I」の考え方での生き方しか知らないまま育った。
両親は私を自由にさせてくれる方だったし、自立せざるおえない家庭環境から
あまり親の力を借りた記憶もなく、1人で生きていると偉そうに思っていた所が
あった。結婚も出産もした今となれば、それがどれ程の間違いで、どれだけの
両親の犠牲の上に私が成り立つのか、痛い程わかり過ぎて頭が上がらない。

1人東京に出ると尚更、同世代の自立感が目につき、私は更に1人で生きていっている顔をしていた。仕事や周りに支えられていると表でカッコつけても心の中では誰も信用せず、信じられるのは自分だけだと思っていたように思う。
実際頼られるのが嬉しく、ついていってみれば宗教の勧誘やネットワークビジネスの勧誘に心が折れた。なんとなく寂しい気持ちになるのが嫌で、私はネガティブに考える癖がついたのかもしれない。期待をしなければ傷つかずに済むから。

「I」の考え方しか知らないんだ…と自覚したのは本当にここ最近である。
私はこう思う。私はこうだから。私はこういう考え方。関係を築くという事は、互いに主張してそれを受け入れ、譲り合いすり合わせる事が人と共存する方法だと思っていた。アサーション能力を高める事が私には必要だと思っていた。
勿論それも間違いではないと思う。

でも私に関しては根本的な考え方から間違っていたのだと最近知る。
誰かと生きていくという免疫も経験もないが為に、常に「I」の感覚でしかない。
以前夫と喧嘩の中「そうじゃなくて、2人で…」と言われた言葉を遮った事があった。その時は育児をしているのはほぼ私であって、日中子供達と向き合うのも私、それなのに何を持って2人でと口にしているのだろうと本気で思った。
辛いのは私、苦しいのは私。それをわかってほしい。
ただ話を聞いて「頑張ってるね。ありがとう」
「イライラしてるのはどうして?」と優しくメンターになってくれれば良いと
自分の都合の良い求め方をしていたのだと思う。

最近とある動画を見て「I」と「WE」の考え方の違いを知った。
「私はこれが好き」と「私達はこれが好き」という単純な違い。
一緒に何かをするという事の当たり前の認識がお恥ずかしい限りですが
私にはなかった。
「私は私」「貴方は貴方」それで良いと思っていたから。
なぜだろう…そういう生き方しか知らなかったから。
「WE」で作り上げるもの。「WE」の考え方をする事、単純な事だけど
私にはそれがとても衝撃的で困難だ。
同族だと私が勝手に思っていた友達の舞台を先日見にいった。
前々から仲間がいることは知っていたはずなのに、「WE」の関係性が構築されている所に改めて注目し客観視してみると、それはしっかり出来上がっていて
なんだか動揺した。自分だけが知らない世界と感覚。彼らが随分大人に見える。

ただ、こんな私もそれを少しずつ身につけていけているのだろうか
子供と笑い合える時間や家族で過ごす時間が尊く、とても幸せに感じる事が今は
できている。新しい職場に足を踏み入れ「WE」を肌で感じる事ができている。
まぁ、そんな考え方の改革をできる余裕がこれまでの育児の中でなかったと言った方が正直正しいのだが…

「私は今はこれが限界。これ以上は無理。」とよく結論づけてしまっていたのは
思い返してみれば「I」で全て解決しようとしてきていたからだと気づいた今日この頃。
それに気付けてから、周りにどれだけサポートされているのか
どれだけ親切に良くしてもらっているのか、前よりグッと気づけるように
なったような気がする。直接的な原因かはわからないが少なくとも
「I」だけで生きていると思わなくなった事は大きく影響していそうだ。
子供達から教わる事も日々多い。毎日、1時間、1分勉強できる事は常に
隣り合わせに存在している。1日24時間じゃ本当に足りない。
「自分の限界は自分で決める」ではなく「自分の限界は皆と決める」に
上書き保存。
ただ…夏の終わりは私が決めたい(笑)