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松下幸之助と『経営の技法』#284

11/25 万物の王者として

~人間は、いつくしみと公正な心をもって、一切を生かす責務を負う存在である。~

 今日のような高度な文明、文化を築き上げてきたのも人間なら、同時に悩み、争い、不幸などを絶えず自ら生み出してきたのもまた、過去・現在における人間の一面である。だから、西欧においては、人間は神と動物の中間に位するものであるということもいわれている。神のごときという面と、動物にも劣るといった面もあわせもっているのが人間であるというわけである。
 私は人間が現実にそういう姿を呈していることを否定するものではもちろんない。いわば、神にも動物にも向かいうるという面を内にもっているのが人間であろう。しかし、そうしたいろいろな面をもった人間というものを総合的に見る時、人間は万物の王者としての偉大な本質をもっていると考えるのである。万物の王者というような表現は、あるいは不遜に響くかもしれない。しかし、私が考える王者というものは、一方においてすべてを支配、活用する機能を有すると同時に、いつくしみと公正な心をもって一切を生かしていく責務をも、あわせ負うものである。”人間は王者である”という意味はまさにそこにあるのであって、決して、単なる自己の欲望や感情などによって恣意的に万物を支配するということではない。

(出展:『運命を生かす』~[改訂新版]松下幸之助 成功の金言365~/松下幸之助[著]/PHP研究所[編刊]/2018年9月)

2つの会社組織論の図

1.内部統制(下の正三角形)の問題
 まず、社長が率いる会社の内部の問題から考えましょう。
 昨日の言葉(11/24の#283)でも問題になった、人間の能力の問題です。万物の王者であって、偉大で崇高、という評価でした。今日の言葉は、その言葉をさらに具体化します。
 すなわち、人間には、神にもなれる側面と、動物以下の側面があるということと、それでも万物の王者であり、王者としての責任がある、ということです。前者については、「性善説」「性悪説」の問題に関し、「善」を備えているが、そのままでは当然に「善」になるのではない、という観点からの検討をしました。
 ここでは、後者の点、すなわち王者の責任について、考えましょう。
 王者の責任は、会社の内部組織で見た場合、経営者の責任、ということになるでしょう。ボトムアップを重視する会社であっても、経営の責任を負うのは経営者のはずだからです。
 松下幸之助氏が、「いつくしみと公正な心」「一切を生かしていく責務」と言い、「単なる自己の欲望や感情などによって恣意的に万物を支配するということではない」と言うのは、まさに経営者としての経験があってのことのように思われます。
 特に、従業員に関し、松下幸之助氏は繰り返し、(その時点では)使えない従業員も見捨てることなく、使う方法を考える、という趣旨の発言をしています。
 このように、王者の責任という発想の中には、経営者の従業員に対して負う責任に関する松下幸之助氏自身の発想が強く影響しているのです。

2.ガバナンス(上の逆三角形)の問題
 次に、ガバナンス上の問題を検討しましょう。
 投資家である株主と経営者の関係で見た場合、王者は投資家になります。投資家にも、例えばインサイダー取引をしない、等の守るべきルールがたくさんありますが、投資家の規律も求められる、ということが言えるでしょう。
 ところが、環境配慮投資など、社会的な問題意識に基づく投資行動は、現在の時点でもまだまだ本格的とは言えません。投資家の投資行動による社会の改善は、今後、議論も活動も活発になっていくべき分野です。
 さらに、投資家は株主として君臨する王者でもあります。
 これこそ、コーポレートガバナンスの根本問題であり、日本では長らく、株主による積極的なコントロールが必要とされてきました。日本の証券市場の株式価格が他国の証券市場と比較して見劣りするのは、日本の株主によるガバナンスが効いていなくて、日本の会社経営に対する投資家の信頼が得られていないからだ、と言われることもあれば、会社で不祥事があると、ガバナンスが効いていない(但し、その指摘の多くは内部統制に関するものですが)、と言われることもあります。
 つまり、まずは本来の権利主張や権利行使が行われることが求められてきました。会社経営に関する株主の積極的な関与それ自体がまずは求められてきたのであって、関与の内容として、全てを生かすような、いつくしみを持った関与方法でなければならない、という点まで十分議論されていません。
 このように見ると、資本家の「いつくしみ」の活動は、日本ではまだまだこれから議論され、実践されていくべき問題領域です。

3.おわりに
 海外では、ノブリスオブリージュなど、社会的に成功を収めた人たちの社会に対する責任が、現実の行動として実践されています。日本でも、例えば江戸の商人は、基金などの際に庶民に配給する米を備蓄しておくなど、儲けさせてもらっている社会に対する責任を、制度として確立していました。江戸初期の飢饉の際、庶民に対して厳しい対応をした商店から打ちこわしにあったことが教訓になった、という説明も聞いたことがありますが、単に危険回避や保険としてではなかったことは、そのような取り組みが一時的なもので終わったのではなく、事業の一部として持続的に行われたことから明らかです。
 日本にも、投資家や経営者の社会的な責任は昔から存在していますので、日本が異質、と評価することには抵抗があります。しかし、諸外国での動向と合っていない面があるのも事実です。
 今後は、諸外国の動向を外形上真似することだけでなく、より本質的な議論も必要でしょう。
 どう思いますか?

※ 『経営の技法』の観点から、一日一言、日めくりカレンダーのように松下幸之助氏の言葉を読み解きながら、『法と経営学』を学びます。
 冒頭の松下幸之助氏の言葉の引用は、①『運命を生かす』から忠実に引用して出展を明示すること、②引用以外の部分が質量共にこの記事の主要な要素であること、③芦原一郎が一切の文責を負うこと、を条件に了解いただきました。

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