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ショート短編『燃え尽きる音』

ぼくは今、浴室でひとり暮らしをしている。

心の奥底から燃えあがる炎を諌め、焦がれた心を鎮めるには、乾燥した部屋よりも、湿気臭いところのほうが落ち着くからだ。もっとも、たんなる気休めでしかない。

すでに病院で、不治の病であと数か月と宣告されている。そのときから、心を揺るがすような音が聞こえてくるようになった。その音は、日増しに大きくなってきた。

身内にはなにひとつ話していない。入院し、病院のベッドで亡くなるなんてまっぴらだ。
 
子供の頃から朝日が大好きで、肉体が滅ぶときには、太陽のなかで、一瞬にして燃え尽きたいと願っていたものだ。

欲望と情熱、哀しみと喜びに満ちた、色とりどりの炎が、幼い頃から心のなかで燃え盛っているのが感じられた。血管に流れるものは血液ではなく、火山から噴火しようとあがいている、マグマのように思えた。

燃え悶える炎を鎮めるために、ときおり海や川にでかけた。
しかし、安寧の日々はそう長くは続かない。ときには、炎がすっかり消火されて、鬱々とした気分に苛まれることもあった。

そんな頃、彼女と出会った。
彼女は、海からのお使いみたいな人だった。

彼女は、ベッドのなかで、人魚のように優雅に泳いだ。尾ビレのように美しい背中。控えめにふくらんだ胸の鼓動に聞耳をたてると、いつもさざ波の音が聞こえてきた。寄せてはかえす波の音が、いつしか子守歌に変わり、ぼくの心に寄せ返す炎がささやかに鎮まり、
つかのまの幸福な思いに満たされた。

彼女のそばにいると、なぜか心に燃え乱れる炎がしだいにおさまっていく。ひからびた魂に潤いがもどってきて、すべてが鮮明にみえてきた。ふと気がつくと、使いきったはずの涙が、ふたたび流れだしていた。

彼女も海や入浴が好きだった。
しかし、ぼくが、心の炎が鎮まるのとはちがい、彼女の場合は、水によって、生命が蘇ってくるようだった。

「水にふれていると、とてもうれしくなるの」

彼女と一緒に入浴もした。せまいタイルのなかでふたり抱きあった。ほどよい熱さの湯が、ふたりをひとつにしてくれた。一瞬ではあったけれど、ぼくも魚になれたような気がした。ぼくは、いつも、海の彼方まで彼女と泳いでいく夢をみていた。

でも、人魚は、誰からも拘束されはしない。彼女は決して、ぼくだけのものではなかった。
彼女は濡れた置き手紙を残し、海に還っていった。

そして、今ぼくは、浴室にいる。ノートパソコンを持ち込んで、ひたすら炎を言葉に移し替えている。

ぼくには時間がない。生きているあいだに、少しでも多くの言葉をなにかに刻みつけておきたいのだ。

貯金をかき崩し、買物は雨の日にすます。トイレやなにか用がないとき以外は浴室に閉じこもっている。

昨夜も血を吐いた。

吐いた血へどは、まるでマグマのように、グツグツと沸騰し、水蒸気が浴室じゅうに広がっていくようにみえた。

熱い、熱い熱い熱い。心も体も乾ききり、いまにも燃えあがってゆくようだ。
しかし、今さら怖れることはやめよう。
ぼくが昇天し、天高く昇りつめ、太陽とひとつになれたそのときは、たとえ冬であっても、愛した身内や、大切な人。そして、彼女と、彼女の愛する人たちだけには、あたたかい陽射しをおくり、いつまでも見守り続けていくつもりだ。

ああ、落雷のような音が、今日も深き闇のなかから響いてくる。その音が、心の真っ只中で鳴り響いたときが命の尽きるとき。そして、ぼくは、ひと塊の灰になる。

(fin)

星谷光洋MUSIC『君が大好きだ』


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