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ショートショート『解脱マニュアル』

男はこれが三途の川なのだろうと思いながら、もやのかかる川の水面の上をそろりそろ りと歩き、死後世界の奥へと向かっていた。男にはなんの不安や怖れもない。

すべてが 『解脱マニュアル』に書かれていたとおりの風景だ。この先をすすめば永遠に満たされた 世界にたどりつけるのだと確信しきっていた。

やがて男が川を渡りきると、灰色で殺風景な大地 が突然目の前にひろがった。まわりを見渡しても何もなく、しばらくぼんやりとしていると、ど こからか白い衣をはおった老人がやってきて男を手招いた。

「やあ、はじめまして。極楽に来たのは初めてですのでよろしくご指導ください」

と男が老人に近寄りながら云うと、老人は顔をしかめつつ男に言葉を返した。

「なにを寝ぼけておる。ここは極楽ではなく、地獄の一丁目じゃ」

「なんですって! 私が地獄に落ちるわけがないでしょう。なぜなら私は極楽にいくため の本のマニュアルどおりに生活をしてきて、まだ四十代の若さで亡くなったんですよ。責 任者を、ここの責任者をだしてください」

男は生前とあい変わらずに驕慢な言葉を老人につきつけた。男はあらゆることにクレー ムをつけるのが趣味で、さまざまな店で苦情を云い、テレビやラジオ、雑誌などをみてい て不謹慎な言葉などをみつけるや、すぐさまクレームの電話や投書をするのがつねだった。

老人は呆れ顔で男の腕をつかむと、すっと空中を飛び、火山の噴火口のような洞窟に男 を降ろした。 そこでは、太い筆先のような眉とひげをたくわえたいかつい顔の閻魔大王が、男をにら みつけ、鳳凰が彫刻された豪華な椅子に腰をどっしりとうずめていた。

「あんたが、あんたがここの責任者ですか? 私を地獄に落とすなんて不手際を私は絶対 に許しませんよ。訴訟も辞さない覚悟です」

男は身震いしながらもそう訴えた。

「おもしろい奴よのう。閻魔のわしに文句を云う奴がいるとは思わなんだ」

と豪快に笑い ながら云ったあと、急に顔をこわばらせると、半ば怒鳴るような口調で、

「じゃがな、おまえが地獄に落ちたのは当然の報いというものじゃ。生前犯した罪を考え てみよ。おまえは傲慢で人に対するおもいやりもなく、なんでもかんでも文句をつけて多 くの人を傷つけたじゃろう。苦情を云われたテレビ局や雑誌社では担当者が降格になり、 その者の家族までもが苦しんだのじゃ。おまえは正義感でなしたことだと云うだろうが、 それは偽善というものじゃ!」

と、云い放つ。

「だけど私は『解脱マニュアル』の本のとおりに生活してきました。食事も菜食にし、日 々瞑想もしてきました。それもこれもみな極楽にいくための努力だったのですよ」

「ふふん、すべてはお見通しじゃぞ。その本はどこかの古本屋で買ったものじゃろう。し かも遥か昔に他国の者がしたためたものを日本人が訳した本じゃな。だが、残念ながらそ の本は誤訳じゃし、時代遅れの手引書でもあるのじゃ。霊界の在り方も日々変化しておる のじゃからな」 「

それでは……私はどんな責め苦を……」

「そうじゃな、今は地獄も手狭になり、現世も地獄と変わらぬようだから、おまえは今一 度生まれ変わり、存分に苦しむがいい」

閻魔はそう云うと、伸びて尖った爪の指先を、火炎に焼かれもがき苦しむ亡者たちに向 けた。

「ほれ、見よ。『解脱マニュアル』をしたためた者も、その火炎地獄で焼かれておるぞ」


男は凍りつくような風が吹く季節に男の子として生まれ変わり、交番の前に捨てられた。 男にはまだ前世や閻魔との記憶が残っていた。男は絶望的な思いと肌寒さに、身も心もうち震わ せながら独り泣き声をあげ続けていた。

            (fin)

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