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瞼に透ける

 両肩に勢いよく手がのっかってくる。左にすこし重さは振れてチャリが傾きそうになった。なんて考えれないぐらいに一瞬のことで、すぐに腰に衝撃が走ったかと思えばよろめきながらも車輪は前に進んだ。そんななんでもない瞬間が、なんでか忘れられない。あれだけくっさいと罵っていたのに潮の香りが気にならなくなったのは、毎日のことで鼻が馴染んだからだったか、後ろからなびいてくる髪の毛のせいだったか。

 ベランダに粗雑に置かれたポリ袋に跳ねる水を見ないように、しっけたマルボロを咥えたままで目をつむる。真っ暗になったはずの視界に、勝手になのか意識的なのか像が結ばれる。曇りの日も雨の日もあったはずなのに思い浮かぶのは熱すら感じる晴天で、車輪の横で流れていく陽をいっぱいに浴びたアスファルトはでこぼこで灰色だし黒い。湾曲して錆びついたハンドルと何か入っていたり入ってなかったりするアルミフレームの籠。振り返っても危ないよと耳に響いてくるぐらいで顔は見えず、無作為に跡のついた白シャツと肩にかかる明るい茶髪はなんとか視界に入っていた。

 そんなニケツの光景ばかり道端の吐き捨てられたガムみたいに頭にこべりついて、何度も何度も出てくる。そういえばニケツは実際違法だし、もはや死語かもしれない。それでも二人乗りよりもニケツの方がしっくりくる、そんな日々が確かにあった。今はない。目を開けたら雨で、海も近くなければ生ゴミの酸っぱさと煙の苦さが鼻に残る。

 春ってどこいった。梅雨にはまだ早いだろ。当てにもならないスマホの週間天気予報を見て、雨にかき消されるぐらい小さく、煙混じりの掠れた声が出る。前は部屋に自分以外の人がいることはよくあった。食べるっていう単純な欲求が駆り立てられる、炒めたニンニクの香ばしさもカレーに入った名前も知らないスパイスの香りもしばらく嗅いでいない。誰かのために料理はできても、一人でいたら料理はほとんどしない。それほど奉仕するタイプでもなければ、いつまで経っても自分は可愛いのに。炒めたり煮たり焼いたり蒸したり、自分のためには何ひとつできない。コンロには読みもしない雑誌が積まれてる。

 吸い殻を空き缶に入れる。特徴のない白い壁紙に引っかかった特徴のない時計は誰がくれたものだったか。短い方の針が3を指しているのに、まだ一日が始まってから何も食べていない。歩いて3分もしないコンビニにいくのも躊躇するぐらいに雨脚は強い。HBの鉛筆で適当に書いた線みたいに雑な振り様で、ソファに寝転んでそのまま目を閉じようと思うと通知がくる。ここのところ役所からの患者数を伝える通知かその日限りで友達になった居酒屋のアカウントぐらいしか連絡が来なかったのに、違った。
 スーツ姿に囲まれて幸せそうな写真の上部に重なってきた白い角丸の中には「飲もうよ」とたったの四文字だけが置かれていた。すぐに親指を液晶の端まで持ち上げて押す。「シャワー浴びてから家出るんだけど一時間後待ち合わせでもいい、というかどこ?」と前のめりに30字以上も返信に費やした。
 Tシャツを脱ぐとほんのわずかにツンとくるにおいがした。浴室に入り黒ずんだ白いはずの椅子に腰かけると反射的に肘が震えてつめたっ、とこぼれた音が反響する。急いで蛇口をひねってもすぐに温水は出ない。しばらく浴槽に向けてほっといてから数秒して、頭にむけて目を閉じた。勢いよく何本も穴から噴き出すシャワーの水音に鼓膜が包まれて、目のあたりは橙色の照明で視界がほんのり色づいていた。

 水がもったいない。髪洗う時はすぐに蛇口を閉めなさい。後ろの方で立ちながらおそらく髪を泡立てている声の主に、母親かよ、とつっこんでも出続けているシャワーの音でかき消される。温水との気温差で結露した鏡にはぼんやりとしたシルエットしか映っていない。けれど胸部から頭にかけてと、頭の先からはみ出る形で緩やかな曲線の上半身があることはわかる。椅子に座る自分と、後ろで立つすらっとした身体にまとわりつく長い黒髪。洗う時はいつもいっしょでこのポジションだった。曇った鏡にシャワーを当てると片方の腕で胸の辺りを隠し、もう片方は髪をほぐしたまま。照れているわけでは無さそうで、虫が顔の前に飛んできたら避けるぐらいの自然な仕草だった。曲がったネギみたいにへこんだお腹と対象的に丸っこいナスみたいな胸は、振り向いた時には隠そうとはしない。風呂に入るのはどうしても面倒なのに、思い返せばあの頃は風呂に入るのが好きだった。丸っこいナスのへたにキスをして洗うのを中断することもあれば、そのまま何もせず洗い終えて狭い湯船に一緒に浸かって浴槽から水が溢れ出ることもあった。

 目を開けて蓋のしてない浴槽に目をやると、空だった。もうしばらく湯船に水は溜めていないし、排水溝に詰まる髪の毛は短い。長くてもチリチリに曲がった股間の毛ぐらいか。そもそもこの浴室とは、置いてあるシャンプーも違ければ、ところどころにピンクのカビが生えているのも違う。
 
 支度をして待ち合わせの場所へ電車で向かう。上りの電車は口元を覆う白や黒のマスクと疲れ果てた目、透明や黒い傘のいくつかが賑やかな街へ向かっている。床は傘の先から染みついた水滴が滴り、濡れていてすり減った靴底だからか滑りやすい。転ばないように、数分で到着するけれど黒のマスクに挟まれるようにして座った。白の一般的な不織布マスクに手を当てて、こういうときにオセロって言うやついたよな。一度思い浮かんでしまうと服のタグなんて捨ててもいいのに取っておくように、瑣末な考えを頭から捨てきれないままスマホをズボンから取り出す。笑顔を振りまいた2ショットも雄大な高原の景色も、15秒ほど、もしくは指で触るたび瞬時に切り替わって流れていく。いくつかは川の大きな石に引っかかるように、指を止めてしまう写真がある。白いドレスにタキシード。スーツの一同と色とりどりのドレス。特別なはずなのに何度も見たことある気がする写真。切り替えても切り替えても、角度が変わり、シーンが変わり、周りの人間が変わり、主役は変わらない。色黒で誠実そうな刈り上げの男の隣には、前髪で広いおでこを隠した艶やかな黒いボブカットの白いドレス姿がある。液晶の画面は半分以下の明るさでも、眼球の奥が反応するぐらいには眩しい姿が何枚も並ぶ。視界を暗くする。液晶は見えなくなるけれど、スリープボタンは押していない。うっすらと光が瞼に透けて入ってくる。

 右肩に重さを感じる。座席の右端に座ってるんだからこっちじゃなくて端の壁に寄りかかりなよ。思ったところで切り揃えられた前髪の下で長い睫毛に守られて気持ちよさそうな寝顔を見るなり、考えは変わった。向かいの窓から雨上がりの西日が差し込んではビルに隠れる。滲んだグラデーションの空で点滅する陽射しに、匂いがあるように感じていた。首元につけられて時間の経った花のような香りと歩き回った汗。艶のあるボブカットに丁寧に指で髪をとかしながらつけられたヘアオイル。柔らかくて白い肌。淡いリップのすき間から薄く聞こえる寝息。全部混ざって、右肩の方からやってくる。暖かくてまぶしい。そんな匂いだと思った。
 アナウンスに加え、扉が開く機械音と高音で目を開ける。勢い余ってスマホを手から落としそうになった。右隣に座っていた黒いマスクはもう降りているようだった。
 床に置いた傘を拾う。雨はまだ降っているのか止んでいるのかわからない。地下鉄のホームに着いてからエスカレーターの列に並ぶ。スマホの画面の中には、荒廃としてさびれた裏路地の写真に切り替わっていた。素敵な写真だと思い、ハートボタンを押した。

 待ち合わせの居酒屋に着くなり、先客に詫びを入れ傘を席に引っ掛けてすぐにトイレに向かった。どうしても我慢出来ず個室に駆け込んで出し切ってから「おしり」のボタンを押す。またスマホに手を伸ばしていた。また綺麗に着飾られた姿に「幸せです」と丁寧に文字を写真の上に乗っけられた画像が並ぶ。見知った男の顔だったので「おめでとう」とコメントを送った。「止」を押してペーパーでしっかり拭き取ってから立ち上がると、水は自動で勝手に流れた。

 席に戻ってからは記憶に残らないありきたりで美味いつまみと、何杯もビールを流し込むといつもよりすぐ視界がぼやけた。そういえば梅水晶だけは馴染み深くて、目に焼きついている。あの子と一緒によく食べていた。派手なメイクで、黒髪の下にインナーカラーで金髪の────。

「お前、やっぱ気持ち悪いな」
 目を見開くと、から揚げにレモンを絞る髭面のジェルで固められたパーマ男がいた。見飽きた顔だった。無意識に話しこんだみたいだ。
「でも、なんかわかるよ」


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