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リディア・デイヴィス『話の終わり』 メタ、執着、記憶の曖昧さ

 Xで見かけて、購入した本です。1994年の刊行なので、私が読む本の中ではかなり新しめ。試し読みした時には「若い彼氏との別れを回想する話なのかな」と思いましたし、ざっくり言えばそれで正しいのですが、構成がなかなか複雑なんですね。
 私という一人称で過去を語っていたかと思うと、いつの間にか現在の私が登場して、「あれをどんな風に表現すればいいのだろう」と小説の書き方について思いを巡らせたり、「あの時はどうだったっけ」とあやふやになった過去を思い出そうとしたりする。今現在の結婚相手や、その人の父親なども登場します。そしてまた、いつの間にか一人称の過去の話に戻り…。
 つまり、メタフィクションなのですが、そのジャンルの小説によくある「メタな小説を書こう」という強い意志、作者の怜悧な計算が感じられない。思うままに書いていたら、何となくメタっぽい作品になっていた、という趣きがあります。もちろん、趣きがあるだけで、実際にはちゃんと計算しているんでしょうけど。

未練と執着

 年下の男との思い出を書いた小説ですが、交際中の楽しい話よりは、男と別れた後の話に重きが置かれています。別れた後も男を愛しているのかどうか、自分でもわからない。でも、男に未練があり、取り憑かれたように執着してしまう…そんな時期の女の心が迫ってきました。
 私自身は冷めた相手に未練を持ったことがなく、そもそも恋愛自体面倒くさいと感じる方です。なので、フィクションであれ実話であれ、相手に執着する話があまり得意ではないのですが、この小説では感情のままならなさが伝わってきて「ああ、こんな風になるのだな」と共感できました。

記憶の曖昧さ

 語り手は、十年以上も前の恋愛を回想しています。なので、記憶が曖昧で、話したことや時には何をしたかも忘れている。なぜそんなことをしたのかを思い出せないこともあり、因果関係があやふやになっている部分も多いです。
 そういう書き方が、とてもリアルでした。私にとっても、過去の出来事は忘れたり、時には頭で書き換えられたりして、はっきりとした事実が見えなくなってしまっていることが多いので。
 先日読み終えた『失われた時を求めて』でも、記憶は重要なテーマです。『話の終わり』とは違い、プルーストの語り手は、マドレーヌのにおいを嗅いだことで過去をあざやかに思い出します。

『失われた時を求めて』は記憶をめぐる物語であり、その全体は語り手が回想しつつ書くというふうに記憶に基づく形式で書かれている。プルーストは、意志や知性を働かせて引き出される想起(「意志的記憶」)に対して、ふとした瞬間にわれしらず甦る鮮明な記憶を「無意志的記憶」と呼んで区別した。

Wikipediaより

 確かにそういう経験もあります。私の場合は、においではなく、音楽のメロディーや歌詞、映画のワンシーンなどですが。過去がよみがえり、現在と過去の境目が失われます。ただ、だからといって会話や情景を完全に思い出すわけではなく、過去はやはり薄いカーテンの向こう側にあります。過去とは現在とつながっているように見えても、手の届かない場所にあるものなのだと実感させてくれる作品でもありました。

作品の外側

 去年の終わりに、ポール・オースターの息子についての記事をよみました。
 オースターは柴田元幸さんの翻訳が人気の作家で、私がフォローしている方でもオースターファンが何人かいらっしゃいますし、その方たちに刺激を受けて、私も去年『ガラスの街』を読みました。
 記事によると、オースターの息子は薬物中毒での逮捕歴もあるとのこと。2022年には麻薬の取り扱い不注意で、自分の娘を死なせてしまいます。その件で逮捕され、釈放された直後にオーバードーズで亡くなるのです。
 オースターは、自分の創作内に息子を登場させていました。また、オースターの後妻である作家のシリ・ハストヴェットも義理の息子について色々と書いていたようです。
 自分のことを親にあれこれ書かれるのって、子どもにはとても辛いことなのだと、マンガ家の西原理恵子さんの娘さんの記事を読んで理解しました。ただでさえ若い頃はアイデンティティーが揺らぎやすいのに、フィクションの中に自分がいて、「あの子はああいう子なんだ」と周りの人たちにも思われてしまう。西原さんの娘さんは自殺未遂を繰り返して、辛い日々を送っているようです。
 西原一家の物語『毎日かあさん』を愛読していたので、彼女の話を知ってとても悲しかったです。家族で楽しく読んだ作品が、娘さんにあれほどのダメージを与えていたなんて。
 どんな芸術作品でも、子どもの人生を損なうほどの価値はないとも感じました。「芸のためなら、女房も泣かす」みたいな時代もありましたが、今は違うと思いたいです。
 そんなことがあったので、オースターの作品も、今後読むとしても、フラットな気持ちでは読めないなと思ったんですね。

 リディア・デイヴィスについては現代アメリカの作家ということしか知らずに読み始めたのですが、読んだ後にウィキを見て、ポール・オースターの元妻だと知りました。亡くなった息子さんの実の母親であることも。
 息子さんは父親と暮らしていたものの、デイヴィスとも交流があったようです。
 デイヴィスは、ポール・オースターやシリ・ハストヴェットとは違い、息子さんを小説に登場させてはいない。なので、作品を通じて息子さんにストレスを与えることはなかったようです。でも、別れた男の話を書く暇があったら、十代の息子を救えたんじゃないかとか考えてしまって…親ができることには限りがあるとわかってはいるし、私自身、子どもの悩みに寄り添えているとも思えないのですが。
 こういうところが、現代の小説ってきついですね。目の前の現実が迫ってくる。つい、古典ばかり読んでしまうわけです。
 


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