見出し画像

意識の流れに親しむ ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』 【読書感想文】

 ヴァージニア・ウルフは20世紀前半に活躍した英国の作家です。モダニズム文学の代表的な作家と言われています。

モダニズム文学ーー20世紀文学の一潮流で、1920年前後に起こった前衛運動をさす。都市生活を背景にし、既成の手法を否定した前衛的な文学運動。ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本、ラテンアメリカなど各国でその動向が見られる。

Wikipedia

 この説明の後に並んでいる作家名を見ると、大半が詩人です。小説家はウルフ、ジェイムズ・ジョイス、プルースト、ジッド。ジッドは『狭き門』のような青春小説しか読んだことがないのですが、残りの三人に共通するのは、意識の流れ手法をとっていることです。

 小説には、三人称の作品と一人称の作品があります。
 三人称小説の例。

 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。

 夏目漱石の『門』の冒頭部分です。主人公・宗助の行動が三人称で描かれています。他の登場人物も三人称ですが、心の中まで描写されるのは宗助だけ。『虞美人草』のように、複数の登場人物の心の中が三人称で描かれる作品もあります。
 
 一人称小説の例。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

 漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部です。名前のない猫が吾輩という一人称で、苦沙味先生や他の登場人物について語ります。『坊ちゃん』の場合、語り手の坊ちゃん=主人公なので、主に自分のことばかり語っていますが、吾輩は基本的に傍観者なので、苦沙味先生を取り巻く人たちを観察します(苦沙味先生の気持ちをダイレクトに語りたい時は、吾輩が先生の日記を盗み読んで先生に憑依するという体になっています)。

 『ダロウェイ夫人』のような意識の流れ手法を使って書かれた作品では、ある人物がその時考えていることがそのまま小説に描かれます。
 ダロウェイ夫人の冒頭部。

 お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った。  
 だって、ルーシーは手一杯だもの。ドアを蝶番から外すことになるし、仕出し屋のランペルマイヤーから人が来る。それに、この朝! すがすがしくて、まるで浜辺で子供たちを待ち受けている朝みたい。

光文社古典新訳文庫 土屋政雄訳

 最初の文章は三人称ですが、その後はクラリッサの意識がそのまま文章になっています。「意識の流れ」なので、一つのことをまっすぐに考えるわけではなく、連想が連想を呼んであちこちに意識が走ります。一つの言葉、何となく視界に入ったもの、漏れ聞こえる誰かの話、そうしたものに影響されて、意識が時には時空を超えて移ろいでいく樣が描かれるのです。

 最初にこの手法の小説を読んだ時は、自分が知っていた小説とは違うので戸惑いましたが、そのうち慣れて、むしろ読みやすいと感じるようになりました。今は外界の刺激や雑音の多い時代なので、冒頭から何ページも風景描写が続くような小説よりも、人の意識がそのまま世界になっているモダニズム小説の方がより身近に思えるのかもしれません(と言いつつ、モダニズム文学の代表作、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は一巻で挫折してしまったのですが)。

 意識の流れ手法を使った小説の中でも、『ダロウェイ夫人』は最も読みやすい作品の一つだと思います。
 小説の舞台になるのは、1923年6月のある一日のロンドン。その日の夜に自宅でパーティーを開く予定のクラリッサ・ダロウェイを中心に、クラリッサの若い頃の恋人でインドから戻ったばかりのピーター、第一次世界大戦の帰還兵で戦闘ストレス反応に苦しむセプティマスなど複数の人々の意識の流れが時にはからみ合いながら描かれます。
 主人公のクラリッサは、表面的には、有名人が集まるパーティーを開くことに喜びを感じるような俗物なのですが、繊細な感受性や他人を気遣う心も兼ね備えています。夫と娘がいる今の生活に心から満足してるのに、ピーターとの過去が思い出され、彼との生活を選んでいたら、違う人生があったのではないかと感じる……といっても、過去を懐かしんだり、悔やんだりする心は、表面にはっきりと浮かび上がっているわけではありません。「意識の流れ」手法でなければ、すくい取るのが難しい、気持ちというよりはイメージとか感覚に近いものだと思います。
 私自身、特に気持ちの波が激しい性格ではないのですが、それでも、一日中同じ気分で同じことを考えているわけではないので、『ダロウェイ夫人』で描かれる人々の心の揺れがとても身近に感じられました。

 ヴァージニア・ウルフといえば、思い出すのは、昔、友達の家のTVで流れていた映画《めぐりあう時間たち》です。この映画は三つのパートに分かれており、パートごとにニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープが主演しているのですが、喋りながら観ていたため、最後のシーンだけが記憶に残っています。ーーキッドマン=ヴァージニア・ウルフが大きな決断を下した表情で、ポケットに石を詰めて川の中へ進んでいくシーンでした(キッドマンはこの演技でオスカーを獲得)。当時、ウルフの小説は『灯台へ』しか読んだことがなく、「自殺したんだっけ?」ぐらいの知識しかなかったので、夫への感謝を書き残し、強い意思で死を選んだウルフの姿に衝撃を受けました。
 華やかなパーティーの女主人として、人生を謳歌しているように見えるダロウェイ夫人。彼女の中にも、ウルフと同じ闇がある。ーー彼女に限らず、多くの人は善き心と浮ついた心、光と闇といった矛盾するものを抱えながら生きているのでしょうね。私の中に数多あまたの私がいることを実感させてくれる小説でした。



この記事が参加している募集

読書感想文

海外文学のススメ

読んでくださってありがとうございます。コメントや感想をいただけると嬉しいです。