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異郷への憧れ 国木田独歩『武蔵野』と大岡昇平『武蔵野夫人』 【青空文庫を読む】

 中学・高校時代は主に海外文学を読んでいたのですが、日本の作家では芥川龍之介と谷崎潤一郎、それに大岡昇平さんが好きでした。
 大岡昇平さんのことは、スタンダールの『パルムの僧院』の翻訳者として知りました。当時は海外文学の訳が古く、「こんな言葉、日常では絶対使わないよなぁ」と感じたり、日本語の単語の意味がわからずに、適当に読み飛ばしたりすることがよくありました。
 そんな中で、大岡さんの翻訳だけは古い言葉づかいがかえって魅力的に思える素敵な文章だったんですね。実は有名な作家だと知った経緯は忘れましたが、図書室にあった小説を何冊か読みました。

 
 大岡昇平さんの小説といえば、映画化もされた『野火』を始めとする戦争ものが有名ですが、当時私が一番好きだったのは『武蔵野夫人』です。Wikipediaには、「『武蔵野夫人』は、大岡昇平の恋愛小説。1950年発表。戦後を代表するベストセラーとなった。題名どおり東京西部の武蔵野が舞台である。新潮文庫で重版している。ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』を手本として試みられたロマネスク小説で、没落していく中産階級の姿を描いている。」とありますが、不倫小説なんですね。といっても、例えばトルストイの『アンナ・カレーニナ』のような生々しさはありません。不倫どころか、恋愛自体に抵抗があった潔癖な(?)女子高生でも、楽しく読める小説でした。

 『武蔵野夫人』の手本になった『ドルジェル伯の舞踏会』はパリの社交界が舞台の恋愛小説なのですが、主人公のドルジェル夫人はあまりにもピュアな性格なので、自分が夫以外の男性を愛してしまっていることにも気付かない。不道徳なことなら、不快な気持ちになるはずだが、自分は楽しく幸せなので、不道徳な状態に陥っているわけがないと無意識に自分を丸め込んでいるのです。そして、自分の気持ちを悟った時には、まずは自分から離れて下さいと相手の男性に頼み、男性がそれを拒むと、夫に自分の気持ちを打ち明ける。夫の力を借りて、夫以外の男性を恋する気持ちを終わらせようとするのです。

 自分の恋心に気付かないとか、夫に頼んで自分の貞操を守ってもらおうとするとか、ドルジェル夫人には恋多きフランス女性とは思えないところがあるのですが、作者のラディゲは、彼女がピュアでイノセントである理由を、西インド諸島にあるフランス領の島、マルティニーク出身であるためだと書いています。偽善的で誰もが仮面をかぶったようなパリの社交界と、ドルジェル夫人が育った、自然にあふれた世界を対比させているのです。

 『武蔵野夫人』では東京の武蔵野という土地が、マルティニークと同じように、戦後の暗く、薄汚れた東京から隔絶された異郷として描かれます。主人公の武蔵野夫人=道子も、ドルジェル夫人とはまた別の意味で、自分を捨て去るような思い切った行動をとるのですが、普通に考えれば「いや、いくら何でもこんなこと…」と思いたくなる道子の行動が、武蔵野という異郷を舞台としているために、特に違和感なく受け入れられてしまう。少なくとも、私はそうでした。東京に住んでいたら、現実の武蔵野と比べて「さすがにカリブ海の島と武蔵野を同列に置くのは無理やろ」と感じたかもしれませんが、大阪人の私には全く馴染みのない地名だったので、自然の美しさと厳しさを同時に感じられる場所として、武蔵野を想像していたのです。



 今回、青空文庫で国木田独歩の『武蔵野』(1898年刊)を読んで、『武蔵野夫人』を思い出しました。大岡さんの小説で描かれる武蔵野は、独歩の『武蔵野』が元になっているのかなと感じたからです。

 独歩の小説は、それほど長い作品ではないのですが、全編が武蔵野への憧憬に満ちているんですね。都心からそう離れているわけではないけど、そこを歩くと心が洗われるように感じる土地。明治後期の話なので、武蔵野の範囲も今よりも広く、独歩は渋谷周辺を歩いています。自然にあふれた…といっても、はぐれてしまったら死を覚悟しなければならないような恐ろしい自然ではありません。林を抜けるとすぐに人家があり、時には地元の人にも出会うような、人の手が入った自然です。文学青年で身体も弱かった独歩(36歳の時に結核で亡くなっています)には、都会と隣り合わせの異郷がちょうどよかったのでしょうか。

 興味深いのは、武蔵野の美しさを独歩がツルゲーネフの『あいびき』(二葉亭四迷の翻訳)によって「発見」したことです。『あいびき』の中の自然描写を読んで、それまでは特に何とも思っていなかった林や川に美しさを見出すのです。また、作中にはワーズワースの詩も引用されており、ツルゲーネフが描写したロシアの自然だけでなく、ワーズワースの詩に登場するイングランドの湖水地方の描写にも、独歩が影響を受けているのがわかります。
 江戸時代の人たちも俳諧や漢詩で自然の美しさを詠っていますが、独歩は欧米の作品によって、自然との向き合い方を学んだのですね。二葉亭四迷が男女の恋愛についてツルゲーネフの小説に学んだように。
 ですから、『武蔵野』に書かれているのは、現実の武蔵野というよりは、独歩の想像力が生み出した武蔵野なのでしょう。現実の武蔵野は姿を変えてしまいましたが、独歩が生み出した美しい異郷のイメージは残り、武蔵野という名称に憧れとノスタルジーを与え続けているような気がします。


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