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「他者を侵害する事を前提とする個性への対処」の話

●あまねく個性は守られるべきだが、「根本的に“他者への侵害”を含む個性」はそれでも許されるべきなのだろうか

封建主義を淘汰し民主主義が産声を上げた「おびただしい程の血で綴られた不幸の時代」を発端に今に至るまで、自然権の名において「あまねく個人のあまねく個性(アイデンティ)は、他者に危害を加えない限りにおいて許されてきた」のだった。

その個性の中には当時まだ理解が及ばず否定されてきた「性自認を巡る少数派達の不幸」も含まれ、同じ様に時間の経過で受け入れられていくであろう「今はまだ受け入れられていない個性」が存在する事も想像に難くない。

「個性あるいは『自分らしさの正体』の定義」は人によってまちまちで、それこそ「個々人の知識・経験に基づくバイアス」にかかれば、広義の意味合いでさえ一致は難しくなるだろう。

しかし、化学的去勢をめぐる昨今の状況を目にして、私は「『狭義においてもほとんどの人に共通して認められないもの』がある訳だが、そこに『性犯罪者のアイデンティティ』も含まれてしまうのではないか」と考える様になったのだ。

つまり「『それがどれ程数少なく特異なものだったしても、あまねく個性は守られるべき』だが、『根本的に“他者への侵害”を含む個性』は、それでも許されるべきなのだろうか」という事である。

もちろん「それがなければ本来もっと善い人生を送れたかもしれない被害者の心境」を考えれば、加害者の加害行為は認められる訳がない。

何せ「自由は、自らの手の届く範囲においてのみ権利として許され、他者に害をなさぬ事を義務として、成立する」のだから。

●相手を認めないのも自分の自由

一点注意したいのは「いずれの個性であっても法律上“許されるべき”であって、『個々人は自らの価値観に従って、必ずしもそれを“認める必要はない”』という事」。

我々には時に様々なレベルで相容れない事があるが、それでも「対話を通して意志を伝え、折衷案を導き出し、共存する道を選ぶ事」ができる。

それは「『お互いの利益を確保する事』への一般的な同意」であり、部分的に利他的な要素を持つそれは「グローバル社会を築いた礎の一つ」であり、多くの人で共通する答えが得られるはずだ。

そこにある利害関係は「お互いの自由を許す事」を要求し、それが破られれば自分の自由の為に相手の自由を侵害する「弱肉強食の不毛な環境に戻る事」を意味する。

しかし先人達はかつての利己を求めた群雄割拠の時代、つまり「『得られた富以上に積み重なった骸の歴史』を再現しない為」に対話を選んだのだ。

血の教訓が示すのは、「例え相手がこちらにとって目に余る何かをしたとしても、それが『我々への侵害』に当たらないのであれば、それは『相手の自由の範疇』という事」なのである。

更に注意したいのは「相手も同様に『こちらの目に余る何か』を許容しているかもしれない」という事で、そうなると「お互い様」なのだ。

相手の行為が罪に該当しないならそれは許されるべきではあるが、「『それに対する自らの思いや感情』は自分の自由の範疇」といえ、つまり「自らに許された自由において、相手を認める必要はない」のだ。

もっと言うなら「『許しているのだから認める必要はない』と考える事さえできる」という訳である。

そういう訳で、あえて書き分けてきた「許される」と「認める」にはそういう意図があり、「他者が自分の行為をどうとらえるか、同様に自分が他者の行為をどう捉えるかは『自由』」なのだ。
(その自由の中で「道徳的善(相手に善を願える様な善さ)を抱ける事」は素晴らしい事だが、今はおいておく)

●与えるも得るも等価交換であるべき

全ては等価交換、「害を与えたなら害を受けるべきで、得を与えたなら得を受けるべき」であり、その考えに基づいて「その人の自由において他者に害を与え、今後もそれが治る見込みがないのなら、まず他者に与えた害と同じだけの害を本人に与えるべきだ」と考える。(無論「価値あるものを与えたのだから、価値あるものを返してもらって当然」と言っている訳ではない)

もちろんそれは私を含めた全ての人がそうあるべきで、金や権力で清算をなかったことにしようとするのは許されるべきではないと思うし、故に他者を侵害してもその罪から逃れる既得権益者は不合理であり、わからせる必要があると思っている。

そして「自他の自由の確保」は性犯罪者も例に漏れず、「『自らの手の届く範囲に限る』なら、最低限共同体は許すべき」であり、侵害すればその程度によって罪と罰が与えられるべきだ。

しかし問題は「他者への侵害を前提とする個性はどう扱えばいいのか」、そして「自主的・能動的に改善の意図があるかどうか」だ。

さてこれは個人的な解釈だが、パラフィリア(性的嗜好)障害の人物だろうとなかろうと、男だろうと女だろうと、「一度快楽を味わった人はそれ以前に戻れず、克服したと思っても些細なキッカケで在りし日の記憶・欲・衝動が復活してしまう」と考えている。

依存している対象が常軌を逸している程、その異常さ故代わりになるものは少なく、トリガーになりうる対象は本人の意思決定に一層強く働きかけ、曝露時間が長い程避けるのは難しくなるのではないだろうか、と。

その結果、「ホルモンが作用するのとは別の(依存症と同じ様な)働き方」で意思決定の選択権を乗っ取り、理性では避け様もなく再犯・御用になるのだと思っている。

この様な人種において、私は「理性的な『お互いの利益(自由)を確保する事』への一般的な同意」が有意に機能するとは考えられず、よって更生も難しいのでないかと考える。

無論、人は何かしらに依存していて、その上で社会運営をしている訳だが、少なくとも「自らの自由の範疇(他者の自由を侵害しない範疇)に留まっている」はずだ。(他者に害を加えなければいいという訳ではないが、今はおいておく)

「自らの意図に反して(特段なくても生活できるにも拘らず)それなしで生きられなくなった様な人」はその影響を与えた人に罪と罰が与えられるべきだが、(多少辛辣だとは思うが)多くの場合自らの自由意思で足を突っ込んだのであり、脱却の為の手段を講じなかったのも自由意思に基づいているのではないかと思う。

という事で、上記から導き出せる「他者を侵害する事を前提とする個性を持つ者への対処」は、「自らの意志で自制できる場合」と「更生のつもりも自制のつもりもない場合」で2通りが考えられる。

前者は化学的去勢と同じ方法で「自制する為の手助け」を行うもので、後者は「個性において他者へ害を加える箇所」を制限した上で拘禁されるものである。

極論にはなるが、例え異端な個性を持っていようとも「その自由な行いが許されない水準を割って『他者への侵害という罪の範疇』に落ちさえしなければ」、万人に許された自由において最低限自由は尊重されるのだ。

もちろん受け入れられ難い個性はその故に憂き目にあうだろうが、それでも「自らの手の届く範囲においてのみ権利として、他者に害をなさぬ事を義務として、許される」のだ。

自由は、他者の侵害から守るための盾にして撃退する為の矛であり、自他とその共同体を柔軟に構築する土台である。

しかし最も基本的が故に、その上に築かれた様々な便利な枠組みで今や押しつぶされ脆弱になっている。

その復権には世間とは逆行する(利益至上を打倒して求める人に求める物を与える様な)運動が必要だが、「too big to fail(大きすぎてつぶせない)」と言われて久しい様に、ただならぬ労力が強いられる。

立場の弱い人を食い物にする悪しき者共を減らし、その中にいる次世代を拓く可能性ある人を育てるにはどうしたらいいのか、今の私にはまだわからない。

ただやはり思うのは、私たちは「自らの自由において『悪しき者共に奪われた自由』を取り戻す事ができるのではないだろうか?」という事。

繰り返される歴史で、我々は「自由の次に何を得るのかを見届ける証人」になれるだろうか?それとも「滅ぶ文明の最期の世代」になるのだろうか?
答えが得られるのはまだ先になりそうだ。

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