濃密な空洞

(2014.3.16記)
田中慎弥原作/青山真治監督「共喰い」観る。

「共喰い」の中で門司港の中央市場がでてくる。
20歳の頃、友人と中央市場にあるカウンターだけの小さな呑み屋に入り、日本酒と刺身を頼み、出てきた刺身の分厚さと大きさに驚いた。刺身というよりぶつ切りに近い魚が惜しげもなく盛られていて700円位だったか。女将さんは中肉中背で顔つきは優しくないけれど、自分の母親と同じ雰囲気を感じて嫌じゃなかった。カウンターは満席で私の隣に座っていた女性が酔っぱらってドン!と机を叩いたあと、カウンターの上に仁王立ちになり、上着を脱いでブラジャーだけになって大声で「はい!わたくしは離婚しました〜!もう男はよかです!きょ〜は〜うちのおごりやけん!みんな呑んで、では歌います!」と言い自作の曲を唄いだした。
女将さんは床に落ちた皿やグラスを掃除しながら怒ることもせず「あんた、たいがいにしときいや。酒」とだけ言っていたように思う。私と友人はあっけにとられたが「ごめんねぇ、初めて来たやろうにこんな日にあたってしもうて」女将さんに謝られた。唄い続ける女の人を見上げ全身から匂い立つような「性」に目が離せなかった。

田舎で生まれその町で育ち、何かを感じたり思ったりすることは風通しもそこそこの町では吹き溜まりとなり、全てあるままにして生きることに疑いを持つこともせず、持ったとしてもその疑いを深く考えたりする前に今日やるべき事が目の前にたんまりと待ち構え、その日その日を積み上げているうちに疑っていたもの自体がどんどんと心の奥底に押しやられてなかったことになる……様な気がして仕方のなかった高校生の私は「早く、はやく田舎を出たい」という考えに行き着くのだが、田舎を出てから十年以上経って九州や西日本が舞台の映画を観たりすると、特に青山真治監督の作品を観ていると早くここから出ていきたいと嫌っていた田舎とそこで暮らし続けている友人や兄、母親、親族、近所の人達のことばかり考えてしまう。以前、母親と口論になった時に言われた「あんたになんがわかるとね。田舎を出れんかった人間の気持ちがあんたにわかるて言えるとね」という言葉を思い出す。
車中、信号を待っている間の数秒だったが、母親というより自分の事を押し殺してでも生きるために暮らしてきた私の知らない女の声だった。

「共食い」の主人公遠馬と父、愛人の暮らす家が、私が9歳まで育った父の実家、見汐家の家によく似ていた。
麦茶を入れている瓶や藤の椅子、珠のれん。ゴザの柄、そして町並み。
遠馬がベッドで横になり、乾いた風が吹いている。蝉の声が五月蝿く聞こえている場面。窓脇で揺れるカーテンとベッドに敷かれたタオルケットの質感を観ているうち、幼少の頃嗅いでいた暮らしの匂いが漂ってくる。鼻腔を開いて深く息を吸ってみた。みぞおちの辺りがグゥっと疼く。
映画の舞台は山口県だが、地方都市の田舎の風景も建物もたいしてかわらないということだろうか。未だ田舎に帰省しても当時と全く変わり用のない場所がありすぎて苛つくときがある。壊してしまいたくなる衝動にかられるが、そんなエネルギーが今の自分にないことも同時に知ることになり虚しくなり悲しくなる。

海水と淡水の交わる松浦川でよく釣りをしていたこと。春にはフグとハゼが一緒に釣れた。海の満ち引きをただずっとみているだけの一日があったこと。その海には誰か作ったか知らないが大きなブランコがあり、潮が満ちて夜に乗るそのブランコは最高だった。目一杯こいで、身体を海に放り投げる。何にも代え難い快感だった。
京町、木綿町の繁華街では週末になるとタクシーが一台もつかまらず、小学生だった私は母の店で客と一緒にタクシーを待つのが週末の日課だったこと。自転車には乗れなかったが一輪車は得意で、一輪車で色んなところへでかけていたこと。近所の床屋、魚屋、化粧品屋、植木屋、酒屋、美容室の人達が毎晩集まり呑んでいる風景。トラック野郎のお兄さんがトラックに乗せてくれたこと。母が知らない男性からラブレターを貰っているのを見た事もある。
全部は25年前、私が暮らしていた町であったこと、その町で暮らして居た人達。あの時の大人がどういう繋がりだったのか未だ知る事もないが、
田舎の人達の濃密にみえる関係の中にうっすら引かれた線のようなものは確かにあったようなきがしている。
「共喰い」を観ながら私の町と記憶が重なる。
映画の内容は私にはとても現実的で、きっとどこの土地でも起こりうることで起こっていたことだろうと思った。2回続けて鑑賞した。

映画「共喰い」オフィシャルのサイトに田中慎弥さんのコメントが載っていた。
「私は小説『共喰い』を、日本のある地方都市で昔こんなことがありました、と伝えるつもりで書きました。過去にあったこと、あったかもしれないこととして。昔話が果してうまく伝わるだろうか、単なる絵空ごとと一蹴されるのではないかと不安もありました。〜中略〜
映画『共喰い』を観て、どこかにあったかもしれない物語が確実な光景として現れてくる興奮を味わいました。 川が流れ、潮が満ち、人がうごめく、その映像に、においまで感じられるかのようでした。空気も土地も、そして人間関係も、濃密でありながらどこかに空洞があり、あっけなく、激しく壊れる。そんな世界が、具体的な場面の連なりで展開されてゆきます。〜後略〜」
その言葉に深く頷いてしまった。

濃密でありながらどこかに空洞があり、という一文は特に。
濃密な空洞。ただからっぽではない。濃密な空洞を持つ人達の生きているその様に激しく共感した。青山真治監督の撮る女達は皆、哀糸豪竹のようその肉体、身心から喜怒哀楽が言葉(セリフ)という音になって聴こえてくる。青山真治監督作品の女達を観るにつけ、名付けようのない感情が溢れてくる。そしてその感情は他人に与えてもらうだけのものではなく、私自身にも備わっているものなのだと気付かせてくれる。

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