オフィス

柘榴と二本の電波塔(1)

 

 陽春の終わりを告げる微風が吹いている。暖かな情動が頬に触れ、世界が一瞬で切り替わる心地がした。灰色のアスファルトも、黄緑がくすんだ雑草も、底の見通せない濁った川も、視界を構成する全ての事象が愛おしい。

 心の奥から爪の先まで、想像もできないような至福を浴びせられ、自立することができなくなる。盛夏の惜しみない太陽光に、溶かされていくアイスクリームみたいだ。加速度的に崩れ、原型を留めなくなっていく私の心。
 崩壊を食い止めるかのように、ヒロトは私の背中に大きな両手を回して、強く抱きしめてくれた。

 ヒロトのぶっきらぼうな優しさに包まれると、呼吸をするという当たり前が当たり前ではなくなる。頼りがいがあるとは言えない細い腕と、薄い胸板が波打つのに呼応して、私の心臓も、血液を送るペースを緩める。粒子のように細い髪が、顔に当たってくすぐったい。吸い上げるように私の形は元に戻り、細胞の結びつきは、より強固になった。
 私は生まれ変わる。きっとこの先、ヒロトが抱擁してくれる度に。何回でも。


 私たちは、唇を重ね合わせた。







 天井にキーボードの音が、消えていく。ドアの横にある本棚には、水色の背表紙が凸凹に浮き出ている。広い窓からは太陽光がふんだんに取り入れられていて、室内には空気清浄機が慎ましく稼働する。清涼な開放感が漂っていて、私は自分の職場を、入社した時から密かに気に入っている。

 タイムカードを押して、青い背もたれの椅子に座り、コンピューターを立ち上げる。メールソフトを起動すると、深夜三時に一件のメールが届いていた。
 添付されているファイルを開くと、画面に映ったのは生まれたばかりの文字の羅列。作家が苦心して、眠気に負けそうになりながらも、何とか書き上げであろう原稿を見つめる。一文字一文字に乗り移った作家の魂を、最良の状態で感じられるこの時間のために、会社に来ているようなものだ。

 画面からいったん目を離して、五〇〇ミリリットルのミルクティーを一口飲み、体に活力を巡らせる。ペットボトルから口を離し、一息つくと、図ったかのように低い声が、意識に割り込んできた。
 顔を上げると、横に立っていたのは、一八〇センチはある長身に、豊富に蓄えられた口髭が威圧的な男。文芸雑誌『柘榴』の編集長である道岡大剛だ。その眼光の鋭さに、自分が何かやらかしたのかと慄いてしまう。


「関、今話できるか」

「は、はい。大丈夫です」

 編集長の畏怖的な雰囲気に圧されて、何てことない口調も怖く感じられてしまう。思わず立ち上がる。手を軽く机にぶつけてしまう。

「来月、中美が『ヤングペンギン』編集部に異動することになったのは知ってるな」

「もちろん、知っています。ムードメーカーの中美先輩がいなくなると、編集部も寂しくなっちゃいますよね」

 威圧感へのせめてもの抵抗で、無理やりにでも笑顔を作ろうとする。しかし、表情筋が上手く動いてくれず、彫刻の失敗作のような顔になってしまう。編集長は当然のことながら笑っていない。

「それで、中美の担当の引継ぎをしなければならないんだが、お前には三澤諒先生を担当してほしいんだ」

「三澤先生、ですか」

 編集長の口から出た言葉を一瞬、信じることができなかった。
 三澤諒といえば、瑞々しい文体と感傷的なストーリーで、人気を博している若手作家だ。年齢も私と一歳ぐらいしか変わらないはず。同年代の人物の中で、最も尊敬している存在と言ってもいい。そんな三澤先生と一緒に仕事ができるなんて。

 心の中で密かにガッツポーズを作る。だが、そのガッツポーズも、すぐに言いしれない不安に消されてしまう。私に三澤先生の担当が務まるのだろうか。そう考えると、視線が定まらなかった。少し落ち着いてから編集長を見る。編集長は毅然とした態度で、腕を組んで立っていた。

「編集長……。ありがとうございます……」

 腕を組んでいる編集長の視線は、変わらず私に向いている。この緊張感では、浮いた言葉は許されないだろう。脳内で浮かんだ言葉をかき消し続ける。何も言えず、頭は自然と下を向く。

「本当に大丈夫か?」

「大丈夫だと思います。多分……」

 流石の編集長もこれにはやや戸惑った様子で、見えない言葉を、一つ二つ吐き出していた。もしかしたら、なかったことにされるかもしれない。それはあまりに嫌なので、強圧な意思に逆らうように顔を上げて、編集長を見つめる。
 編集長は一つ頷いた。どうやら納得してくれたらしい。

「ただ、三澤先生はちょっと特殊でな。他の先生方とは、少し事情が異なっているんだ。おそらく初対面だと驚くと思うが、それでも大丈夫か」

「それは会ってみないと分からないです」

「そうだな。まあお前なら何とかなるだろ」


 そう言うと、編集長は私の向こうへと、声を飛ばした。低い声は墜落することなく壁まで届いていく。

「おい、中美。三澤先生と連絡取れてるか」

「取れてますよー。ていうか先月伝えたじゃないですか。明後日の十四時だって」

 編集長の声と違って、ひどく軽薄な声が返ってきた。紙を捲る音の方が、まだ質量が感じられる。
 編集長の口角がこの日初めて緩んだのを、私は見逃さない。

「そういうことだから、よろしく頼むな」

「は、はい」

 口から出た言葉のあまりの頼りなさに、不安が活発になる。でも、覚悟を決めなければならない。今度の仕事は私にとって大きなターニングポイントになる。なぜだかそんな予感がしていた。
 窓枠の間に掲げられている時計を眺める。秒針の動きがいつもよりゆっくりに感じられた。






 三澤先生の待つ部屋へは、エレベーターを二つ乗り継いで行かなければならなかった。開いたドアから目にした内廊下は、亜麻色のカーペットが敷かれていて、そこらのビジネスホテルよりも上等だ。
 不思議な浮遊感に戸惑いながらも、一番奥へと歩いていく。中美先輩は地に足をつけてズンズン進んでいく。私があのように我が物顔で歩けるようになるには、きっと一年や二年じゃ足りない。

 玄関で三澤先生の了承は得ていたので、中美先輩がドアの前に立つと、すぐにドアは開いた。横にスライドする自動ドアが、私たちに世界を広げる。こんなところにまでお金をかけるなんて、さすが新築は違う。
 ドアが開くとそこには三澤先生が立っていた。

「こんにちは。中美さん。いつもご足労ありがとうございます」

「ちわー。三澤先生。今日もよろしくっす」

 雑誌のインタビューでも、ページの四分の三ほどを占める三澤先生は、雑誌やテレビで見る以上に格好よかった。背がスラっと伸びていて、足も長い。黄金比という言葉が脳裏に浮かぶ。スタイルがいいばかりか、鼻筋は高く通っているし、大きな目の主張は凄まじく、薄い唇の下にある泣きボクロがセクシーだ。ヤバいなんてつまらない言葉より、もっと美しい言葉を、必死で探したくなる。笑顔も爽やかで、ファッション雑誌に写っていても、他のモデルと遜色はないだろう。
 それを、この先輩は。百回頭を下げたい気分になる。

「よろしくおねがいします。あ、中美さん、もしかしてそちらの方が、先月おっしゃっていた新しい担当さんですか」

「そうそう、コイツがウチの関。まだ、三年目なんで色々教えてやってくださいや」

「よ、よろしくお願いしまっ」

 緊張で語尾を言い終わる前に、舌を噛んでしまった。一瞬感じた羞恥を、床に押し付けるかのように頭を下げる。
 顔を上げると、三澤先生は微笑んでくれていた。許されたという気持ちになったのと同時に、何かをそっと隠されたような感じもした。

「関さん、こちらこそよろしくお願いしますね。さあ、詳しい話は中でしましょう。どうぞ上がってください」

 もう一度、よろしくお願いしますと言おうとしたが、今度は「が」のところで噛んでしまう。「さっきより早いとこで噛んでんじゃねーか」と中美先輩が乾いた笑いを漏らしていた。




 一歩部屋の中に入ると、まるで台本もなく舞台に放り出されてしまったみたいに、自分がひどく場違いに感じられた。どこを見ても洒落ていて、高級感が私の胸をチクチク刺す。リビングに置いてあるソファはシックなブラウンで、いかにも座り心地がよさそうだ。でも、私はまだソファに選ばれていない。
 中美先輩は当然のように、三澤先生に案内される前に腰かけて、両手を組んで大きく上げていたけれど。

「関さんもどうぞおかけになってください」

 三澤先生の包み込むような笑顔が、私の壁を取り払う。ゆっくりと座ってみると、ソファは私の体重の分だけ凹み、私の存在を許してくれた。反発がなく、少しごわごわした布地が気持ちいい。

「今、お飲み物を用意しますね。中美さんはいつもの通りコーヒーでいいですか。関さんは…」

「あ、こいつはカレーでいいっすよ。この前も五日連続で食べたって言ってましたし」

「み、三澤先生、そんなわけないじゃないですか。あの、私もコーヒーでお願いします」

 中美先輩の笑えない冗談に、体温が一度上がる。背中に汗が一滴流れるのを感じた。




 三澤先生が大仰なコーヒーメーカーで入れてくれたコーヒーは、苦すぎず、酸味がいいアクセントになっていて、美味しかった。喉から緊張が和らいでいく。三人とも全く同じタイミングで、コーヒーカップから口を離したのが、妙に可笑しかった。
 でも、三澤先生が持ってきてくれたトレーの上にはコーヒーカップが四つあって、そのうち一つはミルクを入れたのか、色が少し薄い。三澤先生は甘党なのかなと思ったけれど、三澤先生が飲んだのは、何も入れていない方のコーヒーだった。

 中美先輩が『ヤングペンギン』編集部に異動になったことを、改めて三澤先生に伝える。三澤先生は気丈に振る舞っていたが、抑えきれない不安が黒髪の上で渦を巻いていた。
 どうやら三澤先生にとっては初めての担当交代らしい。私も心許ないし、三澤先生も心許ない。二人の心許なさが両輪となって、混乱の沼に沈んでいかないように、気合を入れ直さなければ。



 三澤先生には他にも三社の担当がついていること、打ち合わせは角を曲がったところにある喫茶店で行うことが多いこと、連絡は午後の方が繋がりやすいこと。一つ一つの連絡事項が重要で、私は逐一メモを取った。三澤先生にも読めるように最低限の綺麗さで、でも、なるべく素早く。
三ページ目を捲ろうとした時、背後から微かな物音がした。

「おー、三澤おはよう」

「やっと起きたんですか、木立さん。今日の午後に中美さんが来るから、それまでには起きていてって言ったじゃないですか」

 振り返って、上から下まで一度見る。
 木立と呼ばれたその人物は、黄緑色のジャージを着ていて、背丈は三澤先生よりも一〇センチメートルほど低かった。目も鼻も口も、道行く百人の顔を合成したら、こうなるのではないかというくらい平凡だ。それなのに、体つきは三澤先生よりもガッチリしていて、幾分横に長いので、没個性という感じはしなかった。アッシュブラウンに染められた髪の毛が、盛大に跳ねている。

「ああ、悪い悪い。すっかり忘れてたわ。で、この中美さんの横に座ってるのが、新しい担当さん?女なんだ」

「そうですよ、こちらの関さんが新しい担当さんです」

 “木立さん”なる人が何者なのか。三澤先生とはどういった関係なのか。事情が何一つ呑み込めなかったが、リビングは挨拶を強要する。慌ててバックから名刺ケースを取り出し、一枚抜き取った。

「陽月社の関と申します。よろしくお願いいたします」

 “木立さん”は、右手で私が差し出した名刺をつまんだ。一見して名前を確認すると、名刺をポケットにしまい、私を観察する。野良猫のような鋭い眼で、顕微鏡でも覗くように。
 心の最深部まで見透かされていると、確かに感じた。

「ねぇ、アヤカちゃん。年いくつ?」

 いきなり諸々をすっ飛ばした「アヤカちゃん」呼びに、心身が動揺する。

「二十五です」

「へぇ、二十五。若いね。リョウと一つしか違わない」

「ちょっと、木立さん。いきなり『アヤカちゃん』呼びは失礼じゃないんですか」

「いいじゃん別に。減るもんじゃあるまいし。文句あんの?」

「いや、特にないですけど……」

「まあまあ、皆一回座ろう。ほら、木立くんも。引継ぎの続き、続き」

 中美先輩が、そう場を宥めると“木立さん”は、三澤先生の横に座った。大きく足を開けて座っているので、三澤先生が使えるスペースが狭くなって、窮屈そうだった。
 “木立さん”は温くなったミルクコーヒーを口に運んで、満足そうな顔で小さくうなずいた。



「関、改めて紹介するな。こちらが木立巧実くんだ」

「うっす。よろしく」

 その挨拶に遠慮は感じられなかった。こちらに向けてはにかんできたけど、平平凡凡たる笑顔だった。
 胸の中で膨らんだ疑問が、喉を通過して、吐き出される。

「あの、木立さんは三澤先生とどういった関係なんでしょうか。もしかしてお付き合いされてるんですか?」

「アヤカちゃん何言ってんの。俺と三澤はそういう関係じゃないよ。大学からの友達」

 “木立さん”が三澤先生に「な?」と同意を求める。三澤先生は糸で引っ張られたかのように頷き、切なく笑った。私はそれを、私だけに送られたメッセージとして受信する。

「木立さんは、僕の二つ上の先輩なんです。大学の頃から木立さんにはよくしてもらっていて。今でもそうですし」

 三澤先生は笑顔の仮面を崩さない。目の前の三澤先生と“木立さん”の関係は、単なる先輩後輩の関係ではないように感じた。主人と使用人の関係に近いだろうか。三澤先生の命の綱は“木立さん”が握っている。直感よりも深い部分が、そう私に教えてくるのだ。
 中美先輩が何の気なしに話を続ける。

「あ、そうそう、関。木立くんも小説を書いてるんだ。彼、結構上手いよ。大衆的なセンスがあって、それを存分に書きだせる。『売れる』小説を書かせたら、彼に並ぶ人はあまりいないんじゃないかな」

「アヤカちゃんも、きっと俺の書いた小説、読んだことあると思うよ」

 思いが頭の中を駆け巡る。“木立巧実”なんて作家は見たことも聞いたこともない。もしかしてペンネームを使っているのかも。そう考えていると、ジグザグした視線が私に向けられていることに気づく。視線の発信源は他ならぬ三澤先生。
 目が合う。縋るような瞳が寂しい。まさか。

「三澤先生は、書いてないんですか」

 言葉が宙に浮く。誰かが強い力で、かき消してくれることを願う。

「そうだよ。“三澤諒”の実像は木立くんだ。木立くんが、三澤くんの小説を書いているんだ」

 叶わなかった。

「三澤先生、本当なんですか。三澤先生が書いてない、なんてことないですよね」

「いや、関さん。申し訳ないけど事実です。“三澤諒”は俺じゃない。木立さんなんです」

 三本の矢に私の心臓は貫かれる。積み上げてきたレンガが、重機で容赦なく壊されていく。
 コーヒーの水面に波紋が広がる。

「それって、つまりはゴーストライターってことですか」

「やだなー、アヤカちゃん、その言い方。『共著』って言ってくれよ。一応、リョウもアイデア出してくれるんだからさ」

「今の僕があるのは、木立さんのお陰なんです。関さん、裏切ってすいません。でも、分かってください。これは、僕と木立さんに与えられた役割なんです」

「いいか、関。編集を続けていれば、これからもこういった場面にぶち当たる。編集長はお前のことを見込んで、早いうちに慣れておいた方がいいと考えて、この二人の担当につかせたんだ。これはお前のためなんだよ」


 そんなこと言われても、だ。世界が一瞬にして転覆し、本当は嘘で塗り替えられる。三人の言葉は耳朶を滑っていき、バクテリアに間もなく分解されてしまう。私が今まで読んできた言葉。何度も脳内で繰り返した表現。励まし。救い。そんなものは所詮まやかしに過ぎなかった。
 感覚は夜に支配されていく。目の前のコーヒーを一気に飲み干す。神経は鈍麻していて、コーヒーの味は殴りたくなるくらい透明だった。

 窓の向こうにはタワーが二つ、背中を向けるように直立している。視界はぼやけ、景色はあやふやにしか見えない。でも、片方の電波塔だけははっきりと見えた。太陽の光を吸収して、自分より低いもの全てを優しく撫でる。
有無を言わせない、不遜な姿だった。







 木目がそのまま反映された壁に、掛けられた振り子時計が時刻を告げている。テーブルは使い込まれているが、不快な感じはしない。椅子もクッションが柔らかで、背中に触れるスプルースの感触がしっくりくる。中と外では時間の流れがまるで異なっているかのようだ。 
 私たちは喫茶店にいた。“三澤先生”が先月に「柘榴」での連載を終え、今回の打ち合わせは次回作の構想を練ることがメインだった。
 ふと丸窓に目をやると、窓に雨が打ち付けていた。一昨日の夜から途切れ途切れに降っている雨が、未練がましく降り延ばしている。


 三澤さんと私は向かい合って座った。目と目があっても、お互い恥ずかしく、すぐに反らしてしまう。
 三澤さんは慌ててメニューを手に取り、私に向けて見せた。オリジナルコーヒーを頼むと伝えると、視線を泳がせ、ミルクティーにするという。こんな擦れていない雰囲気も三澤さんを作り上げている。



 待っている途中に、木立さんがドアをくぐって、店内に入ってきた。髪の毛は雨に濡れていてもやっぱり跳ねている。私たちを見つけて、席に着こうとしたのと同時に、三澤さんが頼んだミルクティーが出される。木立さんはやってきた店員さんに「いつもの」と言って、私の横に座った。
 外での打ち合わせは、三澤さんのみを作家に見立てて、編集者二人という体で木立さんと私が並んで座るということは、中美先輩からの引継ぎの時に伝えられた注意事項だ。
 あの時の私は心ここにあらずという有様だったが、いざ横に座られると、繊毛がそばだち、体を少しだけ離れたくなる。

「おはようございます。先生。本日もよろしくお願いします」

「いいえ、木立さん。こちらこそよろしくお願いします」

 同じ部屋に住んでいた二人が、今は対面に座って、行儀よく挨拶を交わしている。スクリーンの向こうの俳優の演技を、見ているようだ。

「あ、先生って、今朝の日本代表の試合見ました?」

「いや、見てないですけど」

「そうですか。眠い目をこすりながら見てましたけど、本当に勿体なかったんですよね。前半で相手が一人退場になって。後半はずっと有利に進められたのに、得点を奪えずドロー。これで次は勝つしかないですよ」

「次の相手は強いんですか」

「そりゃ日本よりも、遥かに格上ですからね。世界でもベスト一〇に入るくらい強くて、正直厳しいです。十回やって一回勝てるかどうか」

「そうなんですか。あ、関さんってスポーツ見ますか」

「いえ、私もそんなには見ないですね」

 盛り上がっているとは言えない会話が、私の一言で終わってしまい、テーブルには気まずさが訪れる。店内には私たちの他に二人しかおらず、その二人も新聞を読み、スマートフォンを見ているので、喋っているのは私達だけだった。
 唯一の音源がなくなり、代わりにサイフォンが鳴る音がした。



「さて、先生。次どうしましょう」

 “三澤先生”が先月まで連載していた『ジェットコースター』は「柘榴」の中でも高い人気を誇っていて、単行本も前作よりも五万部増で刷られるという話だ。空いた三澤先生を他社も狙っているのは明らかで、早く次の連載をさせろという空気が部内に行き渡っていた。

「あの、前作を書いている時にうっすらと考えていたんですけど、『ジェットコースター』は山間地が舞台でしたよね。だから次は別のロケーションで、やりたいんですよね」

「それは都市部ということですか」

 “三澤先生”の会話に私が入ると、木立さんは不意に、カメラを向けられたような嫌な顔をする。ガチガチに固められた脚本に、アドリブは不要ということなのか。
 中美先輩はこの二人を相手に一体どうやって打ち合わせをしていたのだろう。引継ぎの時に聞いておけばよかった。

「いや、都市部ともまた違うんですよね。もっと地方の開放的で、閉鎖的な場所を書きたいと言いますか」

「では、海辺の町なんてどうでしょう」

「それも考えたんですけど、イマイチ押しが弱いんですよね。閉塞感がもっと欲しいなと」

「それならもういっそのこと離島にしてみてはどうでしょう。四方を海に囲まれていれば、閉塞感もバッチリですよ」

 三澤さんは少し考え、「それ、いいですね」と言って二回頷いた。この頷きは一体、脚本の何ページに書かれているのだろう。ト書きを三澤さんはそのまま読むように表現している。


 筋書きのない物語に三澤さんを連れ出したいけど、私に何ができるか、今はまだ分からない。この店のオリジナルコーヒーは私には苦すぎる。窓の向こうでは、雨が再び強く降り出し、雨粒が跳ねる音が、サイフォンの声をかき消していた。



続く



柘榴と二本の電波塔(1)




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