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「子ども」「若者」とは、いかなる存在なのでしょうか

※本寄稿はNPO法人わっかの月次報告5月号に掲載されたものです。

この連載を始めるにあたって

第一回目の今回は若者たち、子どもたちがおかれた環境の変化を見ていきたいと思います。そのまえに「子ども」「若者」とは、奥が深くて、とても浅学の私では語り切れないし、心理学的立場で見るのか、教育学の立場で見るのか、社会学の立場なのか、それとも私が関わる福祉の立場で見るのかでも大きく異なっているものです。

さらに福祉の中でも子ども家庭福祉と言われながら、その中でもさらに少年非行、社会的養護か、貧困研究かなどの分野で視点が異なるのが実情です。この一年を通して、できる限り平準化した話を展開させていこうと思いますが、あくまで実践者としての私の目を通して見てきているものだとご了承願います。

「子ども」「若者」とは、いかなる存在なのか。

さて「子ども」「若者」とは、いかなる存在なのでしょうか。その表記のしかただけを取り上げても「子供」「子ども」「こども」と議論の的になることがありました。また、呼び方に関しては、古くは「みどりご(嬰児:3歳くらいまでの子)」「餓鬼(ガキ)」「わらべ」「こわっぱ」などと言われていたこともありました。また、現代でも「赤ちゃん」「児童」「こども」など、その存在そのものを指し示す言葉は無数にありますし、俗語や方言を含むとより多くのものがあるでしょう。

そうした子どもですが、0歳児は乳児と言われたり1-6歳は幼児と言われたりと年齢など、また各法律によっても「子どもは何歳から何歳までか」いうことは変わってきます。そして、法律だけでなく、関係によっても子どもの定義は異なります。たとえば、成人をしたとしても、親から見たらずっと「子ども」というポジションであるように。

多義的な意味合いを含む「子ども」「若者」

多義的な意味合いを含む「子ども」「若者」という言葉ですが、関わっていると、しばしば「子どもが少なくなったね」と聞くことがあります。または「最近の小学校はクラスが少なくて」ということも聞かれることがあります。果たして、子どもはどこへいったのでしょうか(当たり前ですが、大多数は成長して大人になっています)。

2019年の国民生活基礎調査を紐解くと、1986年(今から35年前)の「児童のいる世帯」は46.3%です。それが徐々に減少し、2019年では21.6%まで減少しています。つまり、子どもがいる世帯は35年前と比較して半数以下へと減っていますが、単にこれを子どもが減っているというひとつの現象に矮小化してよいものでしょうか。

家庭構造、就業構造の大きな変化

この40年間には、家庭構造、就業構造の大きな変化もありました。男女共同参画白書(2020年版)から引くと「男性雇用者と無業の妻からなる世帯」は1980年の1114万世帯から2019年には582万世帯へと減少し、「雇用者の共働き世帯」は1980年の614万世帯から、2019年の1245世帯と倍増し、1996年でそれぞれの値が逆転しています。直近でも人材仲介企業のランサーズが2021年3月31日に公表した資料では、自由業者などの国内のフリーランス人口が約1670万人になり、この一年で57%増加したとのことです。背景には、失業や雇用不安等も指摘されますが「雇用される働き方」からの個人で立脚していく時代への回帰かもしれません。

他方で、そうした「自由」や「選択肢」を選ぶことができない人も多くいることは事実であり、また誰もがフリーランスで生活できるわけではありません。資格や実務上のスキルだけでなく、営業や経理などの仕事も一人もしくは少数のチームで行うことになるのですから。しかしながら、週60時間以上働く雇用者は、男性が9.8%、女性が2.3%(2019年度)と、男性に負担がのしかかっていますし、家庭内の家事や育児は女性に負担が重くのしかかっています。

遠位的な構造へのアプローチは必要

そうした中で「家事負担のアウトソーシング化」として、「妻が大変ならば~」「お金で解決できるものは~」とベビーシッターや掃除を外部業者に委託すればよいのではないとかとの言論も散見されるようになりました。そして、東京都などの一部自治体では、ベビーシッター等の利用への助成金が家庭に支払われるようになりました。ただし、これらは「持てる者」「持てる自治体」での話であり、多くは安心して頼む先もなく、また助成金もありません。また、そうした仕事に従事する人は、十分に生活ができるだけの収入があるのか、近接的な解決だけでなく、遠位的な構造へのアプローチは必要ないのかといった疑義があることも記しておきたいです。

ノスタルジックな感傷に浸っていても見えてこない

このように今日、子どもが生活基盤としてきた「家庭」は著しく変化をしてきました。1970年代の休日にはデパートへと出かける生活様式から、90年代のコンビニの勃興と全盛期、そして2010年代からのECの普及など「ものを買う」といった行動ひとつとっても大きな変化です。

そうした実相を捉えつつ、どう「子ども」「若者」を見ていくかは、ノスタルジックな感傷に浸っていても見えてきません。ですから、子どもや若者だけを取り上げても、本質は見えてこず、周辺をとりまく社会の変化に目を向けなければなりません。特に、子どもの声は聞きにくく、また法的権能も制限がされており、自分自身ではどうにもできない事象に取り囲まれているのですから。6歳になったら小学校に行くなんてことも「子どもが自分自身で選んでいる」ことのほうが少ないのではないでしょうか。

「固定化」から「流動化」へ

様々な議論の中で、かつてはライフサイクル/家庭周期論(森岡清美1973)と言って、人の一生は婚前期→新婚期→育児期→教育期→排出期→向老期→退隠期と、みんなが同じようなパターンを前提に語られてきた時期もありました。ですが、今は結婚するかどうかは、その人の選択肢ですし、法律上の家族を形成するかもさまざまです。ですが、就業形態もライフサイクルが提唱された1970年代とは異なりますし、ライフコース論というものも出てきましたが、そうした理論はまだ模索されている最中です。

個の家庭から、大きなデータの社会まで、その流れを見ていくと「固定」化されたと思わされていた子どもや若者、そして家庭も「流動化」し常に同じではないという視点を持つことがひとつのポイントなのかもしれません。流動化ということは、すなわち画一的なイメージで語ることがしづらくなり、同時に虚像にせよある一定のイメージが共有されていた「子ども」「若者」像がなくなることであり、周辺からは見えづらくなるということでもあるのかもしれません。だからこそ、変化のしにくい従来のイメージにとらわれるのではなく、定量データと定性データ、そして子ども・若者たちの語りから紐解かなくてはならないのではないでしょうか。

残り11回は

今回は紙幅の都合上、さわりの部分のみになってしまいましたが、残り11回は、そうした社会背景の変化を捉えながら、かつ「子どもの権利」「人権」「社会正義」といったことを主軸にして、それぞれのテーマをもとに紐解いていきたいと思います。さしあたり、前半のテーマを示しておこうと思います。6月は「制服」、7月「性的少数者」、8月「進路」、9月「夏休み」、10月「親の就労」、11月「居場所」で行こうと思いますが、前後することや時流によっては変更になる場合もあります。どうぞ、よろしくお願いします。

現場から現代社会を思考する/コミュニティソーシャルワーカー(社会福祉士|精神保健福祉士)/地域の組織づくりや再生が生業/実践地域:東京-岐阜/領域:地方自治|政治|若者|子ども|虐待|地域福祉|生活困窮|学校|LGBTQ