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「おつかれさま」と「がんばります」を名一杯叫ぶ私の話

ここ数日、緊張の波でいっぱいいっぱいだったが、ついに解放された。

私は何故だか物事を壮大に捉えてしまう癖がある。普通なら一回転して止まればいいところを、二回転半まわって求めている方向とは逆に歩んでいることがたびたびある。「あ、もっと手前の段階の話だった」と私が気が付けば修正は出来るし、気が付かなければ会話が食い違ったまま終わる。基本は不器用なのだ。

今日はそんな私の性質を全開にしていってしまったので、戻ってください。というか手前の部分のあなたの中だけで消化してしまっているところを書いてくださいね。という当たり前のようなことを言われた。正確に言うならば、私にとっては世紀の大発見みたいなことだったからなるほど!とか思っていたけれど、冷静になれば当たり前のことなのかもしれないと思うようになってきた。

「今しゃべっているような過程を書くのよ」

そう言って笑ってもらえたのは私にとってはすごく救いだった。大した事やっていないかもしれないけれど、十数冊も読んで消化するために寝て、合間に起きて書いてよくやっていると思うことにしている。

膨大な量をコンパクトにするとかそういう能力は私はわりかしあると思っている。逆にまあまあ長い文章を書くことはあまり本来得意な分野ではない。これが、会話だと逆でコンパクトにしすぎることもあるし、全部三段論法だから結論から話せと怒られることもある。話は長いのだと思う。この理由は明快で、私が頭で考えて音にして口から出しながら思考した上に書くという手段があるからだ。書くということはやっぱり上位手段になってしまうので、その間で言葉の量は減るという訳だ。

自分の思考の癖は分かっているつもりだけれど、なかなかつかみきれないところもある。

私が外国語を理解できるのに話せない理由は割と多分同じ原理なのかもしれない。読むのは基本早いし、辞書があればある程度かけるのだけれど、言語の思考回路が日本語であるからしゃべるのが遅い自分にイライラしてしまうのだ。考えながら辿るということが全然できないし、口に出すことで耳から入る理解が出来ないのもムカッとしてしまう。

それでもドイツ語は少しかじってみたいなと思うところもあって、人見知りという言語習得に最悪の個性のせいで、会話に向いていないくせに、知りたがるのはもはやおかしいのではないかと思うこともある。眠っている英語とフランス語と中国語の分も文法ぐらいは頑張ってみてもいいのかもしれない。今日は妙に前向きだ。必要以上のやる気に満ち溢れている自分が面白くて愛おしい。

やりたいことはまだまだたくさんある。一人暮らしと小説を書くことと論文を書くこととスーツのオーダーメイドをすることがまずは私の目下1,2年の大いなる野望。スーツなのは私の戦闘服だと思っているからなのだけれど、メンズスーツのパターンのダーツのないスーツが着たい。オーダーメイドっていうのがなんだか大人っぽくていいなと思っている。旅行だってしたいし、仕事だって充実させたい。

おつかれさまを言う日は同時にがんばりますをいう日でもある。一つ一つの節目を忘れずに大切に歩みたいなと思う、ヘビーな想いのnote。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。