「お母さんが私を産んだのはなんで?」という疑問とその答え。

「ねえ、聞いてもいい?」


「お母さんが私を産んだのはなんで?」

私が27の時、生徒の一人から不意に投げかけられた言葉だった。


「建前とかはいらない。ましろさんがどう思うか、本当のところを聞かせてほしい」


本当のところといっても、私は貴方の母ではないのだけれどと思いながら私はこの疑問に向き合うことにした。取り繕っても無駄だと経験から悟っていた。

「まず、今私は子どもがいないし、産みたいと思ったこともないからお母さんの気持ちはどうしたってわからないよ」
「知ってる。だから聞いてる」

この生徒のお母さんは彼女に「老後を考えて介護をしてもらう人が必要だと思った」と開口一番に言ったそうだ。

彼女は、それは人の命を生み出すということに対しての発言なのかという悔しさや怒りや驚きや様々な負の感情が芽生え傷ついていたように思う。自分がこの時何を彼女に言ったかはあまり覚えていないが、これが理由だったということだけは覚えている。彼女からすると自分でなくても介護をする人であれば誰だってよかったような母の発言に許せない点もあるのだろうと思った。何より、彼女が欲しい前向きな答えでないことに落胆しているように思えた。

私は、物事にはメリットとデメリットがどんな状況でもあって、メリットが上回っただけだと思うとかそんな漠然とした話をした。それから産んだ時のリアルな理由と後天的に今の貴方を見ての理由も違うだろうという話もした。お母さんの言ったような一般的な教科書に書いていそうなことも話してはみた。納得してもらえたかは分からないが、今の私にできることを出し切って、それから私も帰宅して母に同じことを聞いた。

私は「子どもが欲しい」と思う能動的な気持ちが全く分からないまま、年ばかりとってしまった。教育に携わる年月が経過するほど、私に子どもを育てるなんて絶対に無理だという気持ちも沸いてきた。ただ、10代の時と違って「貴方が私を産まなければ私はこんな苦労をしなかった」みたいな怒りが付随していない純粋な疑問として母に聞いてみたい気持ちはあった。

自分の人生だけを追いかけ続けるのではなく、誰かの人生のことも考えたいと思ったというのが私の母の27の私に対する回答だった。

自分で自分のことだけを考え続けて高みを目指していくのもそれはそれで素敵だと思うけれど、その向き合い方に少し疲れたら、自分じゃどうしようも出来ない他者を通して自分の人生を生きることもありなんだよ。という私へのアドバイスが含まれていたように思う。

我の強い娘だから、「介護」とか「なんとなく」で納得してくれないというのを母はよく分かってくれていて、慎重に考えた結果がこれなんだろうなと私は受け止めている。

そうでもなきゃ「結婚はしなくてもいいから、子どもが欲しいと思うなら今のうちよ」とか若干風変わりなアドバイスを私にしないと思うのだ。色んな友人に聞いてみたが、こんな訳の分からない発言が家族のそろう夕飯時に許されている家を私は他に聞いたことがない。

結局私は生徒にはこの話をしなかった。

母に自分の存在を肯定して欲しい欲求が勝っていて、自分のことを考えたい時期にこの話をしても分からないだろうと思ったからだ。きっと今の私では納得のいく説明はあげられない。
でもいつか話してみたいなと思うこともあるし、もしそのいつかが来た時に私がどういう人生を送っているかなんて誰にも分らないからここに記しておくことにした。

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