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私という存在はどうでもいいけれど、私は私が見た話をしたい


初めて短編小説を書いた時がいつだったのか覚えてはいないが、課題として小説を出したのは中学生の頃だった。景色が見えなくて、何度も何度も書いているうちに、視点が混濁して、一部死者視点のまま課題を出した。恥ずかしいことに今も現物が手元にある。

私という一人称が幼い頃からあまりにも俯瞰で物を見すぎていたために、どこが一人称なのか他人との境目が分からなかったという方が正しいのかもしれない。

私の根幹は人見知りで、それはもう捨てようったって捨てきれないほどの強烈な自我を持った柱みたいな部分でもある。それでも人を知りたくて、私のことは知られたくなくて、不躾に無遠慮に空間を見ていた。この人はこう思ってあの人はそう思っているだろうけど、多分本人たちは分からないと思うので、私はただ見ていますね。というような調子で何十年も生きてきてしまった。

こんな調子の私の話を面白がって話を聞いてくれる人もいる。深夜の喫茶店で、それも決まってよくあるチェーン店で、娘よりも年下の私の話を延々聞き続けてくれる謎のおじさんが昔いた。思えば多分捉えどころのない人だったから、私と類似していると言えば類似しているのかもしれない。いつも同じようなジャンパーを羽織って黒いズボンをはいていた。仕事仲間と言えば仕事仲間かもしれなかったが、本当の稼ぎになる仕事は知らなかった。私の環境が色々あってすっかり疎遠だが、住んでいるところは恐らく変わっていないのでいつかばったり会うこともあるのかもしれない。

語弊のないよう一応書き添えて置くのだが、月に1回ぐらい夜通しコーヒーを飲みながら話を聞いてくれて、その代わりその人が聞いた色んな話をしてくれて、それ以外のことは何もない。この話は人にしたことがなかったから、今初めて書いているのだが、何だかとても狂気じみた感じがしている。

それから私は結局のところ、物静かに過ごすことは出来ても、とてもおしゃべりが好きだ。おしゃべりなしに独り言だけで生きていくことは出来るけれど、やっぱり聞く人のいない空間は寂しい気もする。性愛を挟まずに話を聞いてくれる人はいないものか、探してしまう私がいる。



グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。