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ぼくたちは、いじめっ子が許せないのか。いじめが許せないのか。

ことが起きてから考えるのは手遅れかもしれない。けれど、次に同じことが起きないように考えていないと、ぼくたちはずっとこのままだと思う。

いじめについてぼくがどんな風に考えていてどんな方向を向いていたいかをまとめました。※過去のいくつかの記事をまとめて加筆修正したものです。

いじめる側といじめられる側と外野

いじめ問題についてしばしば「いじめられる側にも原因がある」という言説を目にする。そんな時に、だいたい「そんなことはない!いじめる側が悪いに決まっている!」という反応になるんだけれど、これ、きちんと整理しておかないと問題解決に向かわないなあ、と考えていたのでまとめておこうと思う。

まず、いじめが[起きる]ことに関しては、誤解を恐れずに言うと、いじめる側にもいじめられる側にも「要因」はある。

それは、どんな物事にも因果関係があるように、あくまで「要因」であって「原因」ではない

万引きにたとえると、「お腹減った」→「お金がない」→「何か食べたい」→「パン屋に行く」→「パンが並べられている」→「盗る」

という流れがある中で「パンが並べられている」ことは小さな要因にはなっているけれど、それが「万引きの原因」ではない。

ここで「こんな手に取れるところに商品を置いているからだ」という批判は出てこないだろうし、いくら犯人に情状酌量の余地があっても「だからって盗っちゃいけないでしょ」となる。

パン屋さんは被害を受けないように陳列棚をなくしてショーケースにする必要が出てくるかもしれないけれど、それはあくまでも「被害を受けないため」で「盗られる原因がある」からではない。

そこを履き違えてしまうから「被害者にも原因がある」という言説になってしまうのかもしれないなと感じる。

パン屋さんがショーケースを用意することは自分を守るためにする事で、それを外野が促したり勧めたりするのは大きなお世話だろう。

いじめで言えば、家族や近しい人間でその子どもを守るために転校やフリースクールを検討することがあっても、学校やいじめ側がそれを促すことは全くもって間違っている。自分で心身を鍛えようとすることはあっても、スルースキルを身につけましょうなんて外野が言っていいわけがない。

外野ができる事は身を守る方法を教えることではなく、その根本の原因を解決する事だ。ぼくたち子どもと関わる者たちは「だからって盗っちゃダメでしょう」と言っているだけで終わってはいけない。

パンが盗られないようにすることではなくて「万引き自体をしなくてもいいようにする」ことが必要なのだと思う。

そんな時にその人を罰するだけじゃその場しのぎで、万引きをする原因を考えてそれを掘り下げて根本的な解決策を見出していかなければならない。「お金がない」のは「仕事がない」のかもしれないし「仕事がない」のは「社会の構造の問題」かもしれない。

いじめっ子を罰するだけではその根本的な解決にはならない。考えなければならないのは、いじめが[起きる]ことの要因ではなく、[いじめ問題]を解決する方法なんだよね。

「いじめられる側にも原因がある」という言葉ももともとは「いじめっ子が悪い」と問答無用で断罪されることについて「短絡的すぎる!」という問題提起のために発言されることかもしれない。ただ、その返しが「いじめられる側にも原因がある」と短絡的思考返しになってしまうから余計にややこしくなるのだと思う。

要因としては間違っていない。
しかしながら、数あるうちのひとつに過ぎない要因を、さも重要な原因だと表現をするのはどうだろう。

的外れな見解を出してその人が恥をかくだけならいいけれど、いじめ問題については、「だからなんなの」だけではすまない場合もある。ただでさえ「自分に原因があるのかもしれない」と傷ついている子に追い打ちをかけることになるからだ。

僕たちの仕事は子どもを守ることだから、いじめられる子もいじめる子も見ている子もみんなが幸せになれるように、深く考えて解決策を探していかなければならないと思う。

原因を見つけて叩くのではなく、問題を解くことに力を注いでいたい。


いじめっ子を叩くことは「いじめはいけないことだ」と表明することにはならない

「いじめっ子を叩いてもいじめの解決にはならない」と言うと「いじめをしている人たちを擁護しているのか」と感じる方がいるかもしれない。実際に「いじめに消極的すぎるのは危険ではないか」というご意見もいただく。その通りだと思う。「いじめ」を良しとしてはいけないし、断固許してもいけない。

だからと言って、いじめっ子を叩くことが「いじめを許さない」という意見の表明になるのだろうか。僕たちが許してはいけないのは「いじめっ子」ではなく、「いじめ」だ。


いじめっ子を叩く行為は、[1+1]を「3」と答えた人に、「なんで3なんだよ、バカかよ」「答えは2だろうが、なに考えてんだ」と大きな声で叫んでいるようなものだ。

「3ではないこと」と「答えが2であること」は誰か一人が本人に教えてあげればいい話。皆が口ぐちに「3なわけあるか」「2に決まってるのに」「なんで3とか言うかなあ」と間違えた回答者を責め立てる場面があれば、多くの大人は止めるだろう。「それ言ってもなにも解決しないよ」と。解き方を教えてあげなよ、と。

声を上げることが悪いというわけではなくて、例えば「あれはいじめではなく犯罪だ」という声は「3って答えたのに✖️じゃなく△もらってんじゃん!それは完全にバツだろう!」というもの。真っ当な主張だし認識のズレを調整しようとしているから、より多くの声があったほうがいい。


では何を見るのかというと
なぜ、[1+1]の答えを[3]としてしまったのか。それを想像し理解に努めていくこと。その人が同じ間違いを犯さないように、同じミスをする人がいないようにどんな対策ができるかを考えていくことだ。

「なぜ、いじめは起きたのか」「なぜいじめた側はそれをいじめと認識できていなかったのか」「同じことが起きないために、なにができるのか」

あいつは間違っている。からはなにも生まれない。子どもたちのいじめ問題についても同じだ。手を出した子がいた時に、「はい叩いたー!お前が悪いー!」と外野が過剰に加害者を糾弾することがある。叩かれた子が怒るのならわかるけれど、関係ない外野がわざわざ騒ぐのはお門違いというもの。

叩かれた子を守ったり寄り添うためなら必要なことだけれど、他人がその人の人格までも否定していいものではない。「大人なのだから善悪はわかるはずだろう」という声もあるだろうが、それは攻撃していい理由にはならないし法が裁くことだ。

外野が個人攻撃をしはじめると、みんなが忌み嫌っているはずの「いじめ」を自分たちがしてしまうことになる。自分が「気づかない」うちに、自分の正義で。


(間違ってもそんな解釈にはならないと思いますが、「被害者も加害者の気持ちを分かれよ」ということでもありません。被害を受けた方は許す必要なんか無いと思うし、加害者は罪と向き合って償うべきだと思っています。)

加害者を理解しようとすることは擁護することではない

どんな問題でも個人(加害者)のみに原因があることはほとんどない。さまざまな要因が複雑に絡み合い、その問題が起きる。

「悪いことは悪い」それはその通りだけれど、「悪いことをした人が悪い」という考え方は危うい。「罪を憎んで人を憎まずの精神」って許せる心を持ちましょうという精神論ではなくて、「行為」と「人格」を分離して論理的に本質的な解決には向かいましょう、ということ。

物の見方は保育にも影響する。加害者を断罪している人の多くは悪気なんてなく「正義の心」でやっていることだ。その正義の断罪を子どもに対しても向けているのかもしれないと思うと大きな危機感を感じてしまう。


その行為は良くないこと。その良くないことが「なぜ起きたのか」を考えるときに、加害者について想像し理解することが必要になってくる。

たとえば、「いじめているつもりはなかった」という言葉を聞いて「そんなわけないだろう」「しらばくれるな」という怒りが出てくるけれど、その怒りを横に置いておいて「本当に気づいていなかったのなら自分も同じことをしているかもしれない」という想像をしてみる。それは、その加害者の気持ちも汲み取って許してあげようということではなく、その行為を理解し分析するということだ。

なぜ気づけなかったのだろう、と。もし気づいていたとしても、なぜ自制できなかったのだろう、と。

「気づいていない」のだから、自分も「人を傷つける行為」をしていてもそれに「気づいていない」のかもしれないのだ。気づいていないことに気づいていない…恐ろしくなってくる。


以前、いくつかの部署が集まる会議で先輩方から「イジられた」ことがある。周りの人間も乗っかってヘラヘラ笑っていたので「気分を害した」旨を伝えて離席した。後日呼び出されて、会議を途中退席することについてお叱りを受けた。年上で役職も上の先輩たちは「あれはノリやん〜それを受け止める力も必要やで〜」と悪びれることなく言ってきたので「いじめの構造と同じですよ」と伝えたが、ピンときていない様子だった。上司には、気分を害したら表明する権利と表明の方法に「その場から離れる」という選択肢は必要ですよと進言した。僕みたいな向こう見ずだから離席したけれど、真面目な職員なら笑って我慢しているでしょう、と。表面化していないだけで、辛い思いをしている人たちは多くいるんじゃないのかと。


批判に見せた誹謗中傷やあそびのつもりのイジメ、これは日常的に行われているなにも珍しくないことだ。それは、被害者になることだけではなく自分が加害者になることも大いにありえるということ。すでに、なっているかもしれないということ。

かくいう僕も、職場で軽口を叩くことはあるし、自分の隠れた偏見や差別感情に気づいて反省することばかりなので「気づかず」にいじめのような行為をしてしまっているかもしれない。自分を棚に上げずに、棚から下ろして手に持ってきちんと向き合いたいなと思う。


どうすれば被害者も加害者も出ないようにできるかを考える

うちのクラスでいじめはありえない。きっとそう思っている保育者や教員は多いと思います。職場でも立場が上になればなるほど「うちの部署ではパワハラもセクハラもない」と思ってしまいます。思い込みたいのではなく「気づかない」んですよね。

いじめやパワハラなどの話題になったときに「許されへんよな」という話をチームの職員で散々ぶちまけたことがある。けれど少し冷静になったら「ぼくも気づかずにしているかもしれない」と怖くなって「気分を害したら伝える」「伝えづらかったら言える人に相談する、その場から離れる等の意思の表明をする」ことができる環境を作っていきたい、とチームメンバーに話をした。

それに加えて周りも「それはセクハラ・パワハラに当たるんじゃないか?」ということを気軽に指摘し合おうという話になった。職員のなかで「そんなダサい職場にしないようにしよう」「みんなが気持ちよく働けるようにしよう」という思いを共有した。被害者が自衛しろよということではなく、お互いに加害者にも被害者にもなり得るから気づける環境を作れたらと。


意識してみると思いのほかパワハラに当たるかもしれないことが多くあり、その都度声をかけ合う。「あ、今のパワハラちゃいます?」指摘された者は「いや、ノリですやん〜」と言いかけて「あ、違うな。それじゃあアレと一緒ですね。そう思われたなら僕が悪いですね…気をつけよう」と振り返るようになっていった。それでも、まだまだ本質的な解決には届いていないなあと感じている。


悲しい事件が起きるたび、改めてそれぞれが振り返る機会にしなければならないなと感じる。人間同士だから傷つけることはある。「相手はどう思っているだろう」という配慮を欠かさずに、間違えたら謝罪して反省して改めて、を繰り返すしかないんだろう。

そして、この問題も個々が「気をつける」だけではなく、それが起きる構造を理解して仕組み(ルールや制度だけではなく環境と構造)として構築できれば根本的な解決に向かうと思っている。難しいんだけれど、僕はそっちの方向を向いていたいなって。

ひとまずみんな、怒りのステージを超えたなら、次は「自分は大丈夫だろうか」と振り返る機会にしよう。あれがダサいヒドイと思ったのなら「許せない」って糾弾するだけではなくて「カッコいい大人であるために何ができる?」という話をしようよ。よかったら、どうすればみんなが加害者にも被害者にもならないようにしていけるか一緒に考えていこうよ。って、そんなことを思っている。

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