俺ガイル史観

 2010年代ライトノベル史を考えるとき、2010年代中盤を中高生として生きたオタクがほぼ避けて通れないもの、それが『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(通称「俺ガイル」)である。

 確定している事実として、「このライトノベルがすごい!」で2014〜2016年にかけて3年連続で1位を獲得した作品、ということがある。

 つまり、2014年〜2016年にかけての俺ガイルは、「(ラノベの)時代精神の表れ」であった。それは、オタク文化の過渡期というところもおそらく関わっている。

 2010年代半ばは、2021年よりもずっとオタク文化への偏見が大きかった。アニメの話をするのはオタクのすることだった。学校でライトノベルを読むのがまだまだ気恥ずかしい時代だった。オタクにとっては、学校でラノベを読んでいる人を見かけるだけで、こいつは仲間だ、という気持ちになったのではないか。2016年の『君の名は。』のヒット以前の風景は、そのような感じだったと記憶しているが、感覚的に分かる人は多いと思う。

 そこにきて「俺ガイル」である。ひねくれている主人公が、ヒロインとの出会いがありながら(?)も、ひねくれているがゆえにお決まりの展開へと行かない。そのアンチクライマクス的な面が、読者の自意識を刺激する。共感させる。自分がラノベを読むようなオタクであるという卑下、けれども裏返せば自己愛は、「青春とは嘘であり、悪である」という記述に見事に心を持っていかれる。スクールカーストという、学校の中での厳しいリアル、それを魔法のように覆す異能力は無い世界で、愚直に生きていく。リアリズムに徹する話だったことも、共感を得やすかったのだろう。

 2017年以降は「俺ガイル」の刊行ペースは年1冊となり、通常のラノベとは違う趣を感じさせる。もはや固定ファンに向けて、きちんと納得させるような物語を提供するような姿勢にシフトチェンジしたかのようだった。

 『君の名は。』のヒット以降はオタク文化は身近になっていく。学校でも、「陽キャ」だろうが「陰キャ」だろうが関係なくラノベを読む時代が訪れる。そしてWeb小説の影響もいよいよ大きくなる。それは従来のオタク的なものとしてのラノベを大きく揺さぶることとなる。「なろう系」は必ずしもコアなオタクに受けが良いわけではない。「このライトノベルがすごい!」も部門が細分化し、オタクの好きなラノベを測ることは難しくなっていく(一般の投票結果と有識者の投票結果が乖離していく。それだけ一般の間口が広がったのだろう。)。

 それらを考慮し、改めて「俺ガイル」に戻る。確かに俺ガイルは一時期ラノベ界を席巻し、時代精神であった。リアルな学園ものであることから、当時中高生だったオタクにとっては伝説になっただろう。思春期に触れたものは格別である。忘れられない。2017年以降の俺ガイルは時代精神ではない、しかし突き刺されたオタクにとってはそんなことは問題にはならない。彼ら/彼女らは、中高を卒業しても「俺ガイル」を追い続けるだろう。最終的には人間が関係することそれ自体の問題になっていく物語。「自意識の化物」という言葉が出てくるくらいである。自意識が邪魔をして関係が困難になる。しかしそれでも関係していく。そこにどのような答えがあるのか。

 自意識となると、もはや日本近代文学の近代的自我の問題なのではないか。それは刺さる。成長した読者は、俺ガイルへの共感が、スクールカーストの息苦しさにとどまらず、実は根本的な自意識の問題であったと、より強く自覚する。そうしたならば、卒業しようと何しようと読み続ける。自意識と人間関係の答えを知りたいから。

 ここで近代的自我の問題に繋がっていったということを召喚した。なぜそこまで深化したのか。「俺ガイル」作者の渡航の問題意識がすばらしいという面もあるだろう。しかし、実は環境が「俺ガイル」を選んだということがあるのではないか。

 まだオタク文化への偏見が強かった時代に、ひねくれて自意識がどうしようもない主人公の作品をラノベで書く。それはオタク文化と外の世界との落差が生み出す情念に基づいていた。落差が縮まる時代(2016年以降)の直前に(2014〜2016年)に最も輝いたことは先に書いた。「自意識の化物」という言葉が出てきたのが8巻(2013年)であることが傍証となろう。周囲の環境とラノベの環境との落差があった(偏見が強かった)ゆえに、内容においてそのような深刻な部分まで到達したのである。

 これは、和歌山の被差別部落が高度資本主義化されていく様子を描いて「最後の近代文学者」と称された中上健次の小説と近いものがあるのではないか。中上健次の場合は都市と田舎の落差、そしてそれが消滅していく最中の和歌山を書くことで最も輝いた(『枯木灘』など)。「俺ガイル」の場合は、オタク文化が大衆化していく直前にオタク(と厳密には言えないが自意識の面ではほぼそうである)と現実世界との落差を書いたことで輝きを放ったといえる。

 だからこそ「俺ガイル」は、2010年代中盤に中高生だったオタクにとって、大変大きいものとなったのである。時代の転換点に、思春期のときに遭遇してしまった。その象徴が「俺ガイル」だった。「俺ガイル」が輝いた背景には、オタク文化が一般化し、落差が消滅して持っていた何かが失われるという時代の変化があったのである。だから、「俺ガイル史観」が作られる。

 ちなみに中上健次の、最も甚だしく和歌山の被差別部落が消滅する様子を書いた作品である『地の果て 至上の時』は失敗作とされることもある。刊行ペースが落ちた「俺ガイル」の終盤は、必ずしも評判が良いわけではない(自意識が強過ぎて難しすぎるという評価。『ライトノベル・クロニクル』では、「プロムナードの主題は古臭い」という形での批判的論評がなされた)。この共通点から考えると、時代精神で無くなった直後の方が、むしろ時代の全てを表している可能性があるのではないか。

 「俺ガイル史観」は、環境の変化で何かが失われたオタク文化の中で、そのような環境だったからこそ強く自意識が描かれた、リアルで強度のある作品として「俺ガイル」を評価する歴史観(もちろん、思春期に圧倒的に刺さった、というストレートな見方も含めた)である。

 補足で、「俺ガイル」がなぜ「俺ガイル」という通称かという点に関しても書いておく。先行作品として『僕は友達が少ない』(通称「はがない」)があったことを忘れてはいけない。一時期は、「はがない」と「俺ガイル」を一括りにして「残念系」(登場人物が上手く青春できなくて「残念」だからこのネーミングなのであろう)と呼ばれたこともあった(インターネットの噂のようなもので、正確に「残念系」を論じたものは無いようだが...。)。「俺ガイル」は「はまち」という略称もあり、省略の仕方が「はがない」と同じ規則に見える。つまり、「はまち」から「俺ガイル」に一本化されていく過程が、「はがない」と共に「残念系」だった時期から、時代精神へとステップアップする過程と一致する可能性がある。ラノベの通称にも、深掘りすると面白い要素があるだろう。

 ラノベと現実社会との落差が、「俺ガイル史観」をつくった主要な要素であるというのがこの文章の要旨である。自意識の問題は近代文学の問題であり、「俺ガイル」はそれを背負うことになった。しかし、落差は消滅し、「俺ガイル」も役割を終える。その完結は、ラノベにおける近代文学の終わりを象徴しているのかもしれない(完結までに時間がかかったので延命されたかもしれない。たとえ今後スピンオフが書かれようと、似たような作品が生まれようと、既に近代文学は終わったので、パロディにしかならない。)。今度こそラノベは、娯楽として消費されるだけになるだろう。歴史の締めくくりとして、偉大なラノベであった。

追記

「俺ガイル」自体が、ラノベというより通常の小説のリアリズム(自然主義的リアリズム)に基づいて書かれている可能性はある。すると、たまたまラノベの形で自意識を書く近代文学をやったということになり、ラノベの持つ色々な可能性を十分に試したとは言えないのかもしれない。すると、ラノベの歴史は終わっていない。「俺ガイル史観」は、「「俺ガイル」という近代文学がライトノベルをジャックした」というのが真実なのかもしれない。これは今後も検討が必要である。









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