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#0116【愛憎の果てに。血で血を争う権力闘争(保元・平治の乱)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

前回の続きから始めます。

天皇家では、白河上皇の死後に鳥羽上皇が院政を敷きますが、鳥羽は、祖父にあたる白河から押し付けられた女性の子どもを嫌います。

崇徳(すとく)天皇として即位していた彼は、天皇位を自分の弟の近衛(このえ)天皇に譲らされます。鳥羽の意向に逆らえませんでした。

近衛が若くして死ぬと、近衛の兄にあたり、崇徳の弟にあたる後白河が天皇となりました。

生まれた順番:崇徳⇒後白河⇒近衛
天皇即位の順番:崇徳⇒近衛⇒後白河

弟の跡を兄が継ぐ異例の事態です。

皇位継承は、兄から弟、父から子といった流れで継承されてきました。弟から兄という流れは異例中の異例です。

近衛は若死にしたため、息子がいませんでした。さらに近衛には弟もいなかったため、本来の継承順序であれば、崇徳・近衛・後白河世代から、その子どもたち世代に移行するはずです。

崇徳には重仁という息子(近衛からみて甥)がいました。崇徳は当然、自分の息子が天皇になると思っていました。

なぜ、後白河が天皇となったのか。
そもそも後白河は、なぜ近衛の前に天皇にならなかったのか。

理由は、母親です。

近衛の母は、鳥羽が最も愛した藤原得子(とくし)でした。鳥羽は最愛の女性の子どもを自分の後継者としたかったのです。

一方、崇徳と後白河の母は、祖父から与えられた藤原璋子(しょうし)でした。

璋子が鳥羽の妻となって直ぐに崇徳が生まれました。鳥羽は彼を祖父の子どもだと信じていました。

崇徳の家系には絶対に天皇の地位を譲りたくないとの執念から、弟(最愛の女性の息子)から兄の後白河(最愛の女性との子どもではないが間違いなく自分の息子)への異例な継承順序を生み出したのでした。

崇徳に怨みが募ります。これが鳥羽死後の争乱へと繋がっていきます。

鳥羽が死ぬと、崇徳と後白河の争いは武力抜きには決着がつかない状態となり、摂関家(藤原氏)と平氏、源氏もそれぞれ崇徳派・後白河派に内部分裂を起こして1156年に保元の乱が勃発します。

戦いは源義朝と平清盛の活躍で後白河が勝利。崇徳は讃岐(香川県)に流刑となります。

流刑地で崇徳は戦没者のために写経をしました。これを都のお寺に奉納して欲しいと申し出たところ、後白河は呪詛が込められているとして受け取りを拒否。崇徳は憤怒の炎を燃やして1164年に亡くなります。

保元の乱によって、怨みが生じたのは敗者の崇徳だけにとどまらず、勝者側にも生じました。源義朝です。

彼の父、為義は崇徳側につきました。義朝は自分の功績に代えてでもと助命を嘆願しますが、無情にも死刑判決が下されます。

さらに冷酷な命令が義朝に届きます。義朝に為義の死刑執行責任者を命ず・・・。

出世レースでも清盛に差をつけられた義朝は、1159年に平治の乱を起こしますが、敗れ去り最後は家臣の裏切りにあって殺されてしまいました。

源氏、冬の時代の到来。そして驕れる平家の春が始まります。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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