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#0234【古代ギリシアの民主政と衆愚政治(世界史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。今週は古代ギリシアの歴史をみています。

前回: No.233【ペロポネソス戦争】

前回の最後に古代ギリシア人は北方にいたマケドニアに敗れて支配されることになったと語りました。そのマケドニアからアレクサンドロス(アレキサンダー)大王が出てくるのですが、その話はまた別途します。

今回は、なぜアテネが古代ギリシアの盟主の座から落ちてしまったのか。その原因について考察します。

アテネの政治の特徴は、直接民主制です。アテネ市民は議員などを選ばず市民権を持つものが広場に集まり、重要問題を討議したり市民投票をしたりして、都市国家アテネとしてどうするかを決定していきました。

アテネは肉体労働や生産活動を奴隷に委ねており、アテネの市民権を有する自由人は少なかったのです。直接民主制で全員参加型とはいえ、その人数は絞られていました。

アテネでは合議・合意を重んじるため、少しでも独裁者になりそうな人がいたら、その人を追放するということを繰り返すようになりました。

ある程度能力が高い人は目立ちますし、彼の意見ばかりが採用されるようになると「彼の独裁が始まった。あるいはこれから始まる」と思いこまれてしまうのです。

独裁者か否かは、その結果だけでなく、プロセスと本人の意思の問題もありますが、政治に参加するプレイヤーの数が多くなると真意が伝わりづらくなります。

結果、優秀な人たちが追放されていってしまう。また、投票権をもっている市民に迎合する政策ばかりが採用されることになってしまいました。

会社に例えれば、一時的にボーナスカットや昇給ストップなどで経営を立て直さなければならないような事態が起きても、従業員に不利になるような再建策が打てないということです。

アテネも古代ギリシアの盟主となって権力を有するようになったので、組織が肥大化し、既得権益が増えていけば、どこかで整理・再編・再建が必要になってきます。

しかし、少しでも独裁的な人物は追放されるということを繰り返した結果、大胆な政策変更がなされないことになってしまいました。

アテネを倒したスパルタは王様と貴族制の国でした。選抜されたエリートによって国家運営がなされていたのです。

会社に例えれば、取締役会で物事が決まり従業員側は何も言えないという状態です。

アテネとスパルタ。どちらの制度にも一長一短があります。アテネは政治に参加するプレイヤーの数の肥大化をコントロールする術を失い、衆愚政治へと陥りました。短所が前面に出てしまったのです。

スパルタの制度が常に有効だというわけではありません。彼らもテーベの前に敗れ去ったのですから。

組織体制などはあくまでも手段、方法論です。そのメリット・デメリットを理解し、組織の成長度合いやタイミング、状況に応じて臨機応変にフレキシブルに動くことが大切だとこの古代ギリシアの歴史をみて感じます。

そのためにも多様性を受容する環境が必要不可欠だと思います。

いつ、どの分野を先頭に立たせる必要があるのか。状況に応じた対応をとれるよう、ビジネスであれ個人の人生であれ、国家という政府であれ、引き出しの中には多種多様な品が入っていることが強味になります。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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