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#0132【源頼朝と鎌倉幕府の成立②(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
平家滅亡にあたって功績のあった源義経と、鎌倉で総指揮を執っていた兄の頼朝の間に不穏な空気が流れます。

時代の寵児となり、京都で華やかな名声に包まれていた義経は、頼朝の許可を受けずして官位を後白河法皇から受け取ります。

組織を動かす上での要点の一つに人事権があります。頼朝は武士に対する人事権を掌握するため、官位の申請は全て自分を通すように求めました。

しかし、それを公然と弟の義経が違反したのでした。「自分には功績がある。これくらいの官位を受け取ってなんの問題があるんだ。」当然じゃないかと言わんばかりの態度でした。

軍事において抜群の才能を持っていた義経は見えていなかったのです。兄の目的が武士の政治的悲願が。

それは平家を滅ぼすことではなく、この国において天皇家や貴族から自分たちの土地所有権を取得することだったのです。

平家を滅ぼしたとはいえ、その悲願達成のためにも武士が一枚岩となって対抗しなければならない状況に変わりはありませんでした。

会社の経営陣に対して、従業員が一丸となってストライキをしなければならない状況と例えてもよい中、義経の態度をみて経営陣側の切り崩し工作になびいていく武士たちが出てきます。

「こっちについたら、部長にしてやるぞ」。その言葉はとても甘く響きました。

この状況下で労働組合長、頼朝は叫びます。「鎌倉が滅びる」と。

義経と頼朝の対立は決定的となりました。

頼朝の政治的悲願を理解していなかった義経ですが、皮肉なことに彼の行動が結果として、歴史を動かしていきます。

兄弟の仲たがいに乗じた後白河は、源氏の分裂を図ります。しかし、義経に味方するものはほとんどいませんでした。武士は皆、頼朝につくのです。

後白河は仲たがいさせるために義経に頼朝を倒すよう命令書を発行しました。これが後白河にとっては完全に裏目に出ます。

鎌倉武士団一同が、後白河に詰め寄るのです。「この落とし前をどうつけるおつもりで」。

その結果、後白河は、頼朝に対して、全国に守護(裁判権を有する知事)・地頭(荘園のマネジャー)を置く権利を認めさせたのです。義経を捕まえるために必要な措置としてです。

追いつめられた軍事の天才は、まさに平家を滅ぼすためだけにこの世に遣わされたかのようにその役目を終えて奥州の地にて31歳の若さで憤死します。

義経の死後も、守護・地頭を設置する権利を頼朝は保持します。ここに遂に武士の悲願の一部が認められたのです。

天皇家・貴族の荘園領主との対立は続きますが、公的に武士が土地所有者となる道が開かれました。

鎌倉幕府の成立タイミングについては色々な説があるのは、どこのタイミングをもって、頼朝の支配力が成立したかによって異なるためです。

頼朝が関東地方の政治を任せられたタイミングや全国に守護・地頭を置く権利を認められたタイミングなどです。

名実ともにと考えた場合、後白河の死後1192年となります。後白河が生前決して認めることのなかった頼朝の征夷大将軍就任が実現した年でした。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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