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#0143【後鳥羽上皇と承久の変(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

1219年に実朝が暗殺されたことにより、源氏将軍は三代で滅んでしまいましたが、鎌倉幕府の征夷大将軍には京都から派遣された九条三寅が成年後に就任する予定となっていました。

後鳥羽上皇は、長男の土御門(つちみかど)を一度天皇にしましたが、覇気のある順徳に位を譲らせていました。父に従順な土御門は黙って従いました。

1220年になると後鳥羽は順徳に対して、天皇位を順徳の息子に譲らせました。順徳も上皇となることにより、天皇としての責務から解放させるためです。

下準備が完了した1221年になると、後鳥羽は鎌倉幕府の実質的な最高権力者である執権(しっけん)の北条義時を倒す命令を全国の武士たちに発送しました。「承久の変」の始まりです。

かつて皇族である以仁王(もちひとおう、後白河の息子。後鳥羽の伯父)の命令によって全国の武士が立ち上がって平家を倒したことが念頭にあったのでしょう。

「天皇家の最高権力者である私の命令に逆らうものがいるはずがない。」

後鳥羽はそう思ったのでしょう。実際、幕府に任命されて京都の守護職をしていた伊賀光季は後鳥羽の命令を受けた武士たちに攻められて滅ぼされました。

全国の武士たちは去就に悩みます。特に後鳥羽は武士や鎌倉を滅ぼすといっているわけではなく、あくまでも「北条義時」を滅ぼす対象として名指しているのです。幕府に従うべきか。後鳥羽に従うべきか。

ここで北条政子が、鎌倉に集まった武士たちに演説をします。

「(武士を公家支配から脱却させた)頼朝公の恩は海よりも深く、山よりも高い。」

この言葉に思いが定まった鎌倉武士団は、あっという間に京都を占領しました。

後鳥羽は全ての責任を部下に押し付け、知らぬフリを決め込もうとしました。祖父、後白河の真似です。

天皇を誰にするかを決めるのは天皇家だけにできることであり、後鳥羽は自分が処罰されるとは考えませんでした。なぜなら、後鳥羽を除いてその権利・権威を有するものはいないと思ったからです。

しかし、ここで鎌倉幕府は後鳥羽の弟である守貞親王を天皇代理として、彼の命令として次の天皇を彼の息子である後堀川にするという手段に出ました。

天皇家を幕府寄りにすることができた鎌倉幕府は、新天皇の命令として、後鳥羽と順徳をそれぞれ隠岐と佐渡に島流しにしました。

幕府は、穏健派であった土御門を処分するつもりはありませんでしたが、土御門自身から「父が島流しになるのに自分が京に留まるのは忍びない。どこかに流して欲しい」と訴えました。

ただ唯々諾々と親のいうことを聞くだけの軟弱な人物にこのようなことが言えるでしょうか。

正しいたとえかは分かりませんが、当時、京から流されることは現代的な感覚からすると外国の刑務所に収監されるような感覚に近いように思えます。

筆者は土御門を日本史上最高の孝行息子と思っています。

幕府も後鳥羽と順徳に対しては冷たい扱いをしますが、土御門については配流先での生活が最高のものとなるようにきめ細やかに対応し、最初土佐(高知県)から阿波(徳島県)へと移動させてもいます。

さて、天皇家を親幕府にしたあと、鎌倉幕府は執権北条義時の息子泰時(やすとき)を京都に駐在させて、占領行政を開始していきます。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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