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#0227【妥協の産物、室町幕府(日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の通史シリーズですが、しばらく主役を張っていた後醍醐天皇が1339年に吉野で死去します。

(前回:No.226【南北朝時代、凋落する権威とモラル(日本史通史)】)

息子に天皇位を譲ったのは死の前日。

死にあたっては、左手に法華経第五巻、右手に剣を持ち「玉骨(天皇の遺体、ここでは後醍醐をさす)はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄は常に北闕(ほっけつ、北方の宮城、ここでは京都のこと)天を望みたい」と遺言を残しました。
(太平記の記述に則しています。)

京都を奪還しろと遺言を受けた南朝は、戦い続ける必要が出ました。

既に1336年に足利尊氏は建武式目という幕府としての政策綱領を定めて、鎌倉幕府の後継的な政治活動を始めていました。

しかし、実力主義が蔓延していく乱れた世相のため、北朝の方針にそぐわない場合は、南朝につき、南朝で冷遇されたら北朝に寝返るといったことが繰り返されていきます。

鎌倉幕府が弱体化した理由の一つに、領地の分散相続がありました。土地が代を経るごとに細分化されてしまい生産力が低下していったのです。

これを防ぐために実力のある人物に纏めて相続させる惣領制がこの頃主流となりますが、どうやって実力を見極めるのでしょうか。

あるいは実力がないと思われた人はそれで納得するのでしょうか。

今の会社では課長から部長に上がれないが、転職先では部長ポストで迎え入れてくれるとしたら。

現代の転職活動よりも激しいのは、実力を示す手段が詰まるところ「戦争」すなわち「殺し合い」しかなかった点です。

こういった諸勢力の思惑の上で、足利尊氏の幕府は成立していたのです。

後醍醐天皇が死んだあとの吉野の南朝はイマイチ勢いがありません。尊氏のライバルだった新田義貞も北陸の地で戦死します。

これで北朝に勝負あったかと思いきや、北朝の中で内部抗争が起きます。尊氏の弟の足利直義(ただよし)と足利家の執事が仲違いを起こします。

1349年に全国規模に騒乱が大きくなると、今度は尊氏と直義の兄弟での争いも発生します。その過程でなんと尊氏は南朝に降伏するという荒業を使います。1351年です。

この結果、死に体だった南朝が蘇ります。形式上は南朝のみが天皇となりますが、京都は北朝方のものでした。

直義を倒した尊氏は、しれっと北朝を立て直そうとしますが、南朝方の勢力が伸張し京都を奪われてしまい、北朝方の皇族たちが拉致されて奈良の山奥に幽閉されてしまいます。

一時的とはいえ、南朝が京都を取り戻したのです。その後も一進一退の攻防が続き、九州でも南朝が勢力を伸張したり、関東が乱れたりとテンヤワンヤの状態が続きます。

内紛には、抵抗勢力や不満分子が洗い出されたというメリットもあったといえなくはないです。しかし、そもそも尊氏が南朝に降伏しなければ、避けれた混乱ではないでしょうか。

妥協のために筋を曲げてしまうと、余計に痛いしっぺ返しを食らうことの典型だと思っています。

南北朝時代が終わりを迎えるのは、 尊氏も亡くなり、息子の義詮(よしあきら)が二代将軍も死去した後の第三代足利義満の時代のこととなります。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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