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【読書レポ】仲間空間を維持させる“キャラ”

1.相方さんとの関係は?
仲が良い人との関係を漫才コンビに例えて「相方」と呼んだり「自分がツッコミにならないと他の人がボケばっかりで収拾がつかなくなる」みたいなことを話したりする人がいます。また学校の生徒たちが行うコミュニケーションは、お笑いやバラエティー番組を参照されているという指摘もあります。ボケとツッコミを意識した会話は、テンポよく気分や雰囲気を盛り上げ人間関係を円滑にしてくれます。今回は、テレビ番組を事例にこのようなボケとツッコミの関係性に注目した議論を紹介します。

紹介する本:『社会は笑う・増補版』

2.笑いが作り出した内輪ウケ
今回は、第2章「仲間空間と笑い」を取り上げて紹介します。
 
お笑いの定番といえば漫才です。漫才は、ボケ役とツッコミ役が並び、逸脱したボケに向かって形式化されたツッコミを繰り返して観客に笑ってもらうことを目的としています。したがって演者は、観客の反応を前提に芸を行い、時にはその反応に合わせてネタを変更する場合もあります。1980年代のマンザイブームは、このように「笑い」を共通感覚としてもつ仲間意識が成立しました。太田(2013)は、この特徴的な仲間意識にについて以下のように指摘します。

それはつまるところ、ボケる「素人」の空間と言い換えてもいい。ツッコミが脆弱化し、ボケに対する規制が緩和されていくなかで、ボケる「素人」の解放された姿が次第に前面に出てくるようになるのだ。それは、ツッコミとの接続がみえなくなり、またその様態が屈折していく過程でもある。p.71

以降テレビのバラエティ番組は、この仲間意識をカギに発展していきます。1980年代中盤は、番組に独特の個性を持った「素人」たちとの関係性に変化が見られるタイミングでした。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系1985年)では、町にいるどこかズレた素人をスタジオにレポートするコーナーにおいて、ビートたけしは「なんだかなぁ」と困惑するだけでツッコミを入れませんでした。ここで紹介される素人は、ボケる気は全く無く、ただそこにいる存在です。この時点で、これまでのボケとツッコミの関係が切り離れ、一時ツッコミは存在感を失いました。
 
このような素人に対して積極的にツッコミを入れていった人が、とんねるずでした。彼らは、『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系1985年)で、スタジオまで観覧に来た「素人」たちを煽るだけ煽り、一緒になって遊ぶのです。そして「素人」の空間に溶け込むことに成功し、内輪ウケの笑いが成立しました。太田は、この象徴的な違いについてツッコミの存在に注目して考察しました。

ここでは、ツッコミはかぎりなくないに等しいものになっている。とんねるずの「素人」への飛び蹴りは、ボケを抑えつけるよりはむしろそれを増幅させるようなものであり、それを一種のツッコミととらえるにしても、そのもともとの意味合いを完全に逆転させてしまっている。それは、同じ飛び蹴りでも、コント55号での萩本欽一のそれとは似て非なるものである。そう考えるなら、従来のツッコミはここで決定的に後退してしまっているといったほうがいいだろう。p.74

ノリが共有される内輪ウケでは、リアクション芸で見られる反射神経が重要になります。ある刺激や事件に対してオーバーリアクションをすることで笑いを生む空間は、ボケの存在のみで成立し、ツッコミは省略されます。
 
1990年代に突入すると、共通体験を共有した笑いが登場します。子どもの頃にどんな番組を見ていたかなど、ある世代で共通している体験を確認すること「笑い」が生まれます。ここでこれまでのテレビは、人々に共有できる体験を提供しそれらを十分に蓄積することに成功したといえます。確認することで生まれる笑いによって、もはやボケとツッコミの関係は必要なくなりました。
 
ボケとツッコミが必要でない状況によって流行を見せたものが、「自立したパロディ」でした。例えばものまねは、本人そっくりに真似るより本人がもつある特徴を誇張して見せます。このようなパロディ化の登場で、本人に全く似ていないものまねでも「似てねぇ~」と言われながら笑いを生むことが可能になりました。「自立したパロディ」において重要な点は、オリジナルを再現できているかではなくオリジナルを知っている共通の体験を互いに思い起こすことができるかです。したがってこの笑いは、過去の内輪ウケの笑いを反復することになります。
 
内輪ウケの空間によって、その仲間内でキャラ付けされた人物が登場しました。例えば「天然ボケ」というキャラづけは、かつては仲間内のノリやテンションに鈍く期待された振る舞いができない人でした。このような人の存在は、せっかく盛り上がった雰囲気を冷ましてしまいます。しかしながらこのような人物にツッコミを入れることによって、その鈍さは仲間内ではボケとして位置づけ笑いに変えました。また「天然」という言葉を用いることでこのような人物を好意的に迎えました。
 
仲間内のノリやテンションを減退させる者もいれば、反対に過度に逸脱した壊れた存在も登場しました。このような意味不明な自己主張をする人物について太田は以下のように記述します。

だがそうした個体さえも、内輪ウケの空間で完全に孤立してしまうことはない。なぜなら、そこにはノリを読み込むことがぎりぎり可能だからである。たとえば、江頭がしばしば見せる暴れ回ったあとの見事な三点倒立のように、理解不能な行動であっても、そこにノリの高揚が認められるとき、それは「なんだかわからないけどおもしろい」ということになるのである。p.89

たとえ逸脱した者が自分たちの仲間内へ紛れ込んだとしても、このように排除ではなく彼らの仲間内の役割を発見することで逸脱した者を内輪へ包括し、ノリを維持することができたのです。

3.テレビはもう要らない
今、テレビのバラエティー番組へ向けられた関心は、YouTubeのような動画配信サービスへ移ったとのではないかと思います。YouTuberは1人で制作している人も多く、ボケとツッコミの掛け合いがなくとも笑える動画がかぎりなく配信されています。そしてこの配信されている動画を制作しているのは、「素人」の人たちです。
 
番組の司会者を担うほど出世したベテランの芸人の中には、1980年代の反復に固執する人もいるようです。それに対してSNSで、テレビのバラエティー番組はいじめを見ているようで面白くないという発言が散見します。このような冷ややかな意見は、テレビ番組が提示する仲間空間へ包括されることを拒否する動きのように感じます。つまり、内輪ウケやテンションを維持してきた過去の共通―しているはずの―体験を現在は共有できなくなっているのだと思います。
 
したがって大量にある配信チャンネルは、大きな共通体験を持たなくなった世代の「素人」同士が共有できる体験を再構築し、新たな仲間空間を作る動きなのです。

参考・参照文献:太田省一 2013 『社会は笑う・増補版 ボケとツッコミの人間関係』青弓社pp.68‐112

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