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どうしても、地付き・持ち家・家族子ありの想定に戻るのはどうしてなんだろうを・・・ふつう☆コンプレックスが語る

リジチョーを拝命していると、能力や経験以上の役割を求められる。
本日は市の懇談会の委員。
それ用に育成されていないので、こういう場はいつまでも慣れない・・・。

本日の意見交換、市民活動の新しい担い手の創出について/ボランティア活動を促進するために必要な視点について

資料はおもしろかった。とくに、ボランティア活動促進については、今までボランティア層として支えてきた専業主婦・退職者がいなくなっていることを認識し、逆に増えている晩婚化・未婚化による子どもを持たない人たち、若年無業者、外国人労働者に光を当てる。いいよいいよ、こういうの。

なんだけれど、意見交換になると、地域の自治活動の担い手の高齢化・不足について関心は集中。今あるものを前提にどうするかという話になるため、上記の子なし・若年無業者・外国人労働者の参画については話題の外となってしまった。

そもそも、昭和モデルの家族像が無意識のうちに前提にあり、今まで頑張ってくれている人たちの存在があり、となると変わる・変えることは想定しにくい。そもそもマジョリティでうまくいっている人たちにとって、変化のインセンティブはないだろう。

で、地付きでない、子育てしたことがない私は、外から名古屋市に来て30年超、ここに住み始めて7年くらいは経っているにもかかわらず、なんか蚊帳の外と感じてしまうのでした。

地元のエリートだったことも、普通の妻・母をやったこともない私がこういう場の委員でいいのかなと思わなくもないです。まともに生きていなくてすみません、という気持ちになり、他の人が当たり前と思っているものを理解できないということは、自分は人間的に何か欠落しているということを突き付けられ、けっこうメンタルダメージを食らう。普通になったことがないコンプレックスが強いのはわかっている。

ただ、4~5人に1人が50歳時に未婚(結婚経験なし)の時代だから、ひとりくらいは存在して、主流派ではないものの意見や感覚を伝えるのが役割として、がんばって参加します。


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