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鹿野を伝える -2,805人の物語-

山口県周南市鹿野地域のさまざまなことを伝え、応援していくことを目的とする市民団体「まちづくり応援団えーる」として活動を開始してから、2022年2月で丸13年を迎えました。

おおむね月に1回、地域情報紙「えーる!」を発行しながら、鹿野の魅力を伝えていく、つまり情報発信を主なミッションとして考えています。

自分の人生の中でも2番目に長く続いているこの活動、仕事でもなく、誰かがスポンサーになっているでもなく、いわゆる「趣味」の範疇で、ただひたすらにやってきました。

14年目が始まったこの活動。今年のテーマとして定めたことをご紹介し、創作大賞2022への参加記事としたいと思います。

山口県周南市鹿野とは

本題に入る前に、まず「山口県周南市鹿野」とはどのような場所なのかをご紹介します。

平成15年4月21日、いわゆる平成の大合併で生まれた山口県周南市。山口県といえば、本州の西の端、歴史好きの人であれば「維新の里」として認識してもらえるでしょうか。

その山口県の東部に位置する周南市は、天然の良港と広大なコンビナートを持つ工業都市でありながら、同時に山と海に囲まれた、自然豊かな地方都市でもあります。

本州の西の端、山口県の北東部にある山間の町

鹿野は、そんな周南市の北部、中国山地の盆地に栄えた田舎町です。

標高360メートルという高地にあり、自然にあふれたこの町は、春は各地に咲き誇るサクラで染まり、夏は清流を飛びかうホタルを楽しみ、秋にはブランド米の収穫でおいしい新米を堪能し、冬には一面の銀世界と刺し込むような寒気に気持ちが引き締まる、そんな四季折々の顔を見せてくれます。

川沿いでは縄文時代の遺跡が見つかっていますし、江戸時代には街道筋でもあったため、たびたび市が開かれたという歴史もあります。この歴史が示すとおり、はるか昔から人が住む地域だったようですね。

自動車さえあれば意外と便も良く、周南市の市街地までは約40分、高速道路を利用すれば、広島市まで約1時間半で行くこともできます。

公共交通網が弱いため、移動手段は自動車に頼りっきりになりますが、通販なども駆使すれば「物がなくて困る!」なんてところまで陥ることはなさそうです。

むしろ、水道の水が飲めないってなんで!? と思った少年時代。

その魅力の1つは、おいしい水、澄んだ空気です。

ダムよりも高地に位置するため、水道をひねってそのままゴクゴク水を飲めるぐらいにきれいな水が流れていて、うっかり他所で同じことをして腹を下してしまった思い出があります。そのくらい、水道水でもきれいな水なんですよ。

そして、喘息持ちだった自分にはとてもありがたいことに、とても空気が澄んでいます。

他にも、療養のために鹿野を訪れた人がいるという話を聞いたことがありますが、そのくらいきれいな空気を当たり前のように吸い込むことができる場所でもあります。

かの冬花火「銀嶺の舞」。鹿野の12月には、このイベントがなくちゃ。

そんな鹿野のイチオシイベントは、毎年12月に行われている、かの冬花火「銀嶺の舞」です。冬の澄んだ空気の中、レーザー光線と音楽で彩られた花火を堪能できるこの催しは、令和4年でついに30回目を迎えます。

季節を問わず大小さまざまなイベントが鹿野の各地で行われる、とにかく元気に活動する人が多いのも、鹿野の魅力の1つですね。

“自然豊かな田舎町”のいま

そんな鹿野の今は、しかし、決して明るいものではありません。

合併当時、4,543人だった人口は、令和3年末には2,805人まで減少しています。高齢化も非常に進んでおり、中には60代が「一番若い」という地区もあります。

限界集落……そんな言葉が現実に忍び寄るどころか、すでに眼前に立ちはだかっているような場所なんです。

13年間鹿野を発信し続けてきて、ゾクリとするような、嫌な気分を味わうことがあります。

「この催しは、あと何年取材できるんだろう?」

先に挙げた冬花火も、当時はまだ若者だった有志一同も、還暦を間近に控えるような年齢になっていらっしゃいます。

冬花火だけでなく、今、鹿野のさまざまな催しを動かしている人たちは、60代以上、80歳を超えて第一線で活動されている人さえいます。

「この町は、10年後、20年後に、どうなっているんだろう?」

元気に活動されている方々といっても、10年後に同じように活動できているという保証はありません。

世代交代しなければならない、でも、交代する相手がいないんです。
もしかすると、だからこそ第一線で活動「しなければならない」のかもしれません。

2022年2月号として発行した「えーる!」では、この問題について向き合ってみることに決めました。

鹿野に、外のまちからやって来た方が知り合いにいらっしゃったことを思い出し、取材を行うことにしました。

取材させていただいたウェブデザイナーの中村さんは、もともとは東京にお住まいでしたが、東日本大震災を機に、ご主人の故郷である山口県へとIターンされ、鹿野で暮らし始めて10年になります。

自分なりに、移住、そしてその先にある定住に至るまで、必要ではないかと考えていることを質問させていただくと、はっとするような薫陶を得ることができました。

詳しい話は、フリーペーパーとして公開しています。
この本文では、特に重要と感じた2点について、ご紹介とお呼びかけをしていきます。

「幸せになれるまち」ってなんだろう

「人が幸福感を得られるまちになれば、自然に人は増えてくるんじゃないかな?」
1つ目は、中村さんの、この言葉そのものです。

住んでいて幸せを感じられない場所に、長く留まってくれるわけがない。
考えてみればとてもシンプルなことです。
自分がどこかに移住したいと考えた時に、居心地の悪いところに留まりたいとは、確かに思えませんね。

だからこそ、鹿野を「人が幸せになれるまち」にしていかなければならないと思います。

居心地よく、自分らしく、地域の仲間とも支え合いながら暮らせる場所。
何かがあっても、そこに帰ればホッとできる場所。
そんな場所をつくりたい、と思います。

自分も、大学時代と社会人の初年を福岡県で過ごしている、いわゆるUターン経験者です。

新卒の1年間、誰もが名前を知るような大企業に就職できたのですが、完全に合わない仕事を無理やりに続けた結果、「辞めさせろ」と上層部から命令されたのを上司にかばってもらい、なんとかグループ会社出向という名の左遷で済まされました。

私生活でも人生初の彼女と手痛い別れを経験し、公私ともにズダズダになった時期でした。

地下鉄に入ってきた電車を見て「飛び込んだら楽になれそうだな」というようなことを、「今日の夕飯は何にしようかな」と同じぐらいのレベルで考えるようになった頃、仕事を辞めて帰郷しました。

そんな消耗しきった心身を、鹿野の自然が、ゆっくりと癒やしてくれたのを覚えています。

先ほど、「そんな場所をつくりたい」と書いた場所というのは、自分が思う「幸せになれるまち」のイメージそのものなのです。

もし、この記事を読まれている方で、「自分ならこんなまちに住めたら幸せだな」と思うことがあれば、ぜひコメント欄で教えてください。
活動を続けるうえで、少しでもたくさんの「幸せのイメージ」を知ることが、とても重要なことなのです。

「自分にできること」ってなんだろう

もう1つは、鹿野の特徴でもある、「分け合う」文化に関係することです。

田舎特有の、隣人同士の垣根の低さから、実家もよく「たくさん取れたから」と野菜のおすそ分けをもらうことがあります。
自分も幼い頃、父の知人がバケツいっぱいのアユをくれたことを覚えています。
こうした「分け合う」文化は、今も鹿野の地には息づいているのです。

しかし、自分もこの文化で誰かと分け合うものはあるのでしょうか。
もらったものに対して、何かで返そうとしても、畑の耕し方も知らないし、アユを釣るだけの技術もありません。

では、もらうばかりで何もできないのか?
その答えを、中村さんとの会話で導くことができました。

「自分にできることで、お返しをすることができたらいいよね」

中村さんもまた、自分と同じように野菜や魚でお返しをするのは難しいと語ります。
だけど絵やデザインをお返しすることはできるんだよ。
そう、語ってくれました。

では、自分は?
どんな方法で、何を分け合うことができるんだろう?

そう考えた時に、自分が誰にも負けないと胸を張って言えるものはたった1つだけ。
鹿野を応援する、ということだけです。

鹿野で活動している人、鹿野で行われる催し、そして時には、鹿野の自然や歴史に対し、精一杯の気持ちで「がんばれ」という気持ちを示すことだけは、誰にも負けないと自負しています。

だけど、学生時代のように、学ランを着こんで大声でエールを切ればいいというものではありません。

それはあくまで学生応援団としての鼓舞の仕方であって、いまこうして社会人として生きている中で、同じようには通用しないものです。

だから、「伝える」という手段で、エールを送り続ける道を選びました。

地域情報紙を創るという方法……自費で取材し、編集し、印刷して発行する、そういう手段で鹿野を伝える。

少しでも自分の愛する故郷を広めたい、移住を考える人の目に留まって、選択肢の1つに挙げてほしい、そんな気持ちで、鹿野を伝え続けています。

野菜をくれた本人に直接お返しをするわけではありませんが、住んでいる地域に返せるもので、自分の持つものを分け合っていければと思います。

共著「幸せになれるまち 鹿野」

いま、幸いなことに、同じ思いを持つたくさんの人が、鹿野のために活動しています。

ある人は、鹿野を日本一のカフェの里にするために。
ある人は、動画配信を通して鹿野と外部の交流を生むために。
ある人は、劇団を通して地域の架け橋をつくるために。
ある人は、子ども食堂から地域のコミュニティをつくるために。

やり方も、考え方も、まったく同じではありません。
ただ1つ、「鹿野のために何かをしたい」という思いだけを同じくして、活動を続けているのです。

鹿野に残された2,805人と、鹿野に関係する多くの人が創り出す「鹿野」という物語。
それが世代を越えて、永遠に未完の物語となるように走り続ける人たち。

自分もその人たちの末席で、心からのエールを送り続けています。

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