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別珍の黒いジャケットとユニオンジャック

彼はロンドンの街に溶け込んだ...つもりで歩いていた.さっきから時折小雨がぱらつくが,ここでは誰も傘をさす人がいない.コヴェント・ガーデンに着いてからあたりを見渡し,さて,どうしたものかと思った.日本を発つ前にある友人から「コヴェント・ガーデンは見とかなきゃね」と言われたから来たものの,どうにも自分好みのものを探すに一苦労しそうなほどお店が並んでいる.せっかく来たんだからロンドンの記念になるお土産を何か買おうと思っていた彼は,とりあえず,蚤の市のようなマーケットが出ているあたりをうろついたところで,アンティークの小物が目に留まり足を止めた.

アンティークに関してなにひとつ教養がない彼だったが,この異国の地で,どこかの家で誰かと過ごしてきたはずの,そういったモノに何となく親近感が湧いた.昨日,この地でホームステイしている友人を訪ねたとき,そのホストファミリーの家(ロンドンに多く建ち並ぶタウンハウスの佇まいだ)と,玄関を開けて中に入って目に付く壁のあちこちに飾られた幾多の写真,小物,そういったモノに知らぬ間に影響を受けていたのかもしれない.

マーケットの店先で,彼は真鍮の古い小物入れ,とても小さいが,丁寧に彫刻が施されている(プレスで作られたのだと思うが)が,何となく気に入った.彼女へのプレゼントにちょうどいいような気がした.気に入るだろうか,そんなことを思いながら,店主にお決まりの値段交渉をして,いくらか勉強してもらったところで納得し,小銭入れから慣れないポンドを数えて支払った.考えてみると,ヒースローについて直ぐに両替を兼ねてマクドナルドでドリンクを買ったほかは,チューブ(地下鉄)などの券売機以外で買い物をしたのは初めてだった.無事買い物が出来て,彼はちょっと気が楽になった.

さらに,いかにも観光客目当てのお店で,レコードジャケットのように見立ててパッケージされている,ユニオンジャックのTシャツを友達のお土産に買った.気に入らなければ自分で着るさ,と思いながら支払いを済ませた.

ふと顔を上げると,古い教会堂が目に入った.これがコヴェント・ガーデンのセント・ポール教会か,ガイドブックに書いてあったな,と彼は思い出した.曇っていた空に日差しが戻ってきた.ロンドンに着いて,そういえば違和感を感じていたことのひとつが,現地の人が来ているものの季節感のなさだった.チューブの中では,夏だというのに革ジャンを着た人もいたほどだ.日本より遥かに露出度の激しい洋服を着た女の子がいる一方で,長袖の上着を着ている人も多くいる.そんなことを思い出しながら,彼は教会の中に入った.

中に入ると,教科書で習ったような荘厳なヨーロッパの石造りの教会堂というよりは,子供のころに通っていたカトリック系の幼稚園の付属教会のような親しみやすさを感じた.でも,暗い中に目を凝らすと,ベンチも,内装も,年季の入った木の深い色がその歴史を物語っていた.彼は,教会の中に,古いグランドピアノが鎮座しているのに気付いた.ふつうはパイプオルガンだろうと思って,室内を見渡すと,ちゃんとパイプオルガンも備え付けてはある.サロンコンサートのようなものを開くのだろうか.弾けるわけでもないのに,なにかその薄暗い空間に置かれたピアノに近寄って,彼はそっとシャッターを切った.

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教会で少し日差しを避けて休んだのち,再び外に出た彼は,自分にも何かここで買ってもいいんじゃないかと思い始めていた.蚤の市の中に.古着らしいカラフルなウールのくたびれたジャケットなどが並べられたハンガーラックに目が留まった.値札を見ると,きっと特に何の変哲もないものなんだろう,思いのほか安い.男物も女物も一緒くたにして並べてある.ジャケットなどはボタンの留め方を確認しないとどちらか分からない.その中に,黒い別珍のジャケットがあった.主人が羽織ってみたらどうかと促す.袖を通すと,ピッタリすぎるくらいで,袖がちょっと短い.でも,その別珍の生地の柔らかさが何とも気持ちよかった.先ほど彼女や友人への買い物を済ませて気分がよくなっていた彼は,なんとなくこれも出会いだろうなどと自分に言い聞かせるようにして,体を横に向けたりしながら鏡を見てみた.サイズが小さすぎないかと気になったが,Tシャツの上に重ねて着るつもりなら問題ない気がした.店主は,日本から来たのかと聞いた.そして,10ポンドでいいよ,と言った.

結局,彼はそのジャケットを買った.ロンドンは7月だったが,さすがにロンドン子のようにその場でそれを着る気にはなれなかった.

リアルな後日譚(その後のお土産たち)

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