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プロ奢ラレヤーと妄信国民

今更ながらの話ですが。

 本当に今更ながらなのだが、今(1月26日)から二日ほど前(1月24日付)のヤフーニュースである記事を見た。

 プロ奢ラレヤーこと、中島太一さんは、私がTwitterでフォローしている中の一人で、興味のある人だ。

 何故興味があるのか?それは、この現代社会においてどうやって他人におごられ、その金で生きて行っているのか個人的に興味があったと言う、簡単に言えば、興味本位と言う見方が強かったが、次第にその魅力に取りつかれていき、自分も奢ってみたいと言う気持ちに包まれ、同時にこの人のような生き方をしてみたいと思うようになった。自分の好きなことだけをやって、嫌いなことは一切やらない。自分の理想とする生き方だ。

 私は現在、一応国家公務員と言う仕事をしているが、はっきり言ってこの仕事に愛着は毛ほども感じていないし、仕事のやる気もない。仕事内容は完全にミスマッチもいい所で、自由はない不自由だけの生活を送っていて、ほとほと仕事に嫌気がさしている。はっきり言ってただいるだけの役立たず国家公務員で、正直言って退職して自分の好きなことをやりたいと常々思っていたが、その生き方がここにあったとすら思った。

 しかし、その生き方にNOを突き付ける人がほとんどであった。ツイッターからの引用であるが見て欲しい。

 3枚目のヤフーニュースのコメントだが、プロ奢ラレヤーの生き方を否定するコメントがほとんどであった。コメントを見て感じたのは

「自分も働いているんだから、お前も働け」

「自分だけ楽をしているなんて不公平だ」

のようなコメントを複数見かけた。

この国の人間が妄信している偏愛と主義

 この国に住んでいる国民、もとい、人間は二つの主義を盲信し得ている。

「みんな一緒主義」

「協調性偏愛主義」

 この二つである。これは哲学者である中島義道先生からの受け売り、そして引用であるが、私はとても同意する。

 我々日本人は幼い時から何かにつけて皆と一緒である事を強いられてきた気がする。そしてその中では異常なまでに協調性が重んじられて来た。それは幼稚園、学校、会社、コミュニティが変わっても同じことであり。その中で協調できない物は異常者として扱われ、ひどい時には排斥、その先には「死」が待っていた。

 何故この国ではみんな一緒や協調性が重んじられるのか。

 それは国民がみんな一緒、協調性と言うものを刷り込まれ、みんな一緒、協調性について考えることを放棄されられた、一種のマインドコントロールにかかっているからだ。協調性やみんな一緒なんてものは、なくても生きていけることがほとんどだし無理に重んじることなどない。にも拘わらず殆どの日本国民は協調性やみんな一緒主義を重んじており、ここまでくるとマインドコントロールを通り越して、一種のカルト教と同じであり、妄信国民ならぬカルト国民ではないのかと疑いたくなってきて、その疑いは正しいのである。そしてその疑いを持ったものを排除しようと躍起になり、変化しようとする人間を魔女狩りの魔女のように探し出し、排斥する。日本国民、もといカルト国民の得意技を持っているからだ。

多様性と言う名の日本国における魔女狩り

 近頃最近、多様性、マイノリティと言う言葉をお題目のように耳にして、そして猫も杓子も口にする。

 だが、この国では多様性やマイノリティなんてものは、日本国における魔女狩りの材料にされるのではないかと、プロ奢ラレヤーの記事とコメントを見て感じた。

 みんな一緒主義や協調性を偏愛し、そして妄信しカルト国民になっている国の中で、耳障りの良い事を言ったとしても、それを材料にして異質なものを排除する材料に利用するのが、このカルト国民の得意技であるし、たとえ時代が変わってもそれは変わらない。つくづく思う事だが、一度この国は法律も道徳も関係ない、無政府状態の無法地帯になるべきだと常々思っている。

 それは一度、何もかもの価値観が壊れた世界になってしまうと、それが今まで、いかに役に立たなかったのかを思い知らされることになる。この国に住んでいるカルト国民が本当に変化したいと思うのであれば、無法地帯の無政府状態になって、そこからやり直すと事しかないのだろう。一度この国と国民はとことん壊れてみないと、本当に変化することがないのだから。

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本当にこの国と国民は変化を望んでいるのか。もし、本当に望んでいるなら国とその価値観を壊さない限り、変化はない。

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