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「恋」は平等じゃないけれど、「恋する」ということは全員に平等であるということを知った

世の中には、いろんな人がいる。

クールなひともいれば、陽気なひともいる。
恋愛話がすきなひともいれば、あまりしないひともいる。

街を歩いているとき、たまに、
「あのひとも、このひとも、恋をしたことがあるんだなあ」
と思うことがある。



わたしは、家族や友人に、ほとんど恋の話をしない。
LGBTだから、好きになる対象がみんなとちょっとちがうから、
それは「恋の話」に対する共感よりも、
「同性愛の話」に対する下世話な興味になりかねないと思ってしまう。
それに、ずっと気持ちを押し殺すような恋しかしてこなかったわたしには
みんなを楽しませるような恋の話はできないことも知っている。

だから、みんながどんな思いで恋をするのか、
私の恋の仕方はふつうなのかどうか、
恋というものの「ものさし」を持っていなかった。
マイノリティである以上、自分がする「恋」と、
他人のする「恋」は、きっと全然違うものなんだろうと思っていた。

でも、それが間違っていると分かったのは、
谷川俊太郎の
『失恋とは恋を失うことではない』
というエッセイを読んだときだった。

「恋している者は相手のほんの小さな表情、とるにたらない言葉などを
いちいち気にかけながら、そしてそのため相手に完全に支配されている
ように見えながら、実は自分ひとりだけで自分の生を類ない喜びで
一杯にすることが出来ます。(中略)あるいはまたその人のほんのかすかな
眼のうごきを思い出して銀座から青山一丁目までを足の疲れなど一秒も
感ぜずに、喜びにみたされたまま歩いてしまうかもしれません。」
(谷川俊太郎著『失恋とは恋を失うことではない』)

好きな人のことを考えると、頭がいっぱいになり、
見るものすべてをその人とつなげて考えたくなる。
きれいな桜をみればその人と一緒に見たいと思うし、
八百屋に行けばいつか一緒にごはんを作って食べたいなどと考える。

このエッセイは、わたしに、
怖い人も優しい人も、男も女も、そうでないひとも、
きっと同じ方法で相手を想うのだということを教えてくれた。


教室

あれは高校生のとき、同じ部活だった女の子に恋をした。
元気だけど時々ネガティブで、まじめでたまに抜けている子だった。
いつも一緒に登校し、部活がある日はいつも一緒に帰った。
わたしはいつも、はやる自分の気持ちがばれないように、
何気ない顔であいさつし、会話をし、彼女を笑わせた。

あるときから彼女の視線は、よくわたしを捉えるようになった。
下校の際の別れぎわには、名残惜しむような無言の時間が増えた。
電車で隣同士に乗るとき、肌が触れ合うほどくっついてきた。
そして人に見えないように、そっと手をつないできた。
そのときにかいだ、やわらかな柔軟剤のにおいは、
わたしのなかでずっと彼女のにおいとして記憶している。



大学を卒業後、彼女は大学で知り合った同級生と結婚した。

結婚式に招待されながら、わたしは行けなかった。


こんなこと、人に話したこともない。
気恥ずかしくて数少ない、忘れられない思い出でした。


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