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地球は周り歴史も廻る(そしてオリエントへ)

未発掘だった「ギョベクリ・テペ」(アナトリア)が語る文明

ギリシアで発展した学術が、この近代現代まで及ぶ天文・哲学・物理・科学世界の礎のなかに、だれがその知識に浴したのか、という問題はあまり検証されない。(高度な文明叡智学術の回遊)

その点については、過去再三、このサイトで云ってきたことなので省略するが、ギリシア時代の覇者「アレキサンダー大王」の功績は計り知れない。その歴史上の無二カリスマが不在となった後の、後継者争いが、こんにちまで持続している、と穿った論理を述べると、どこからともなく異論が挿し挟まれるのは承知の上である。 
 
画像 「イノシシ」石堀(紀元前) 提供ウィキペディア 578px-Gobekli2012-27「ギョベクリ・テペ」発掘 http://bar.wikipedia.org/wiki/Benutzer:Luki/G%C3%B6pekli_Tepe


ウイキペディア

「ギョベクリ・テペ」遺跡 はアナトリア半島南東部、シャンルウルファ(前 ウルファ、エデッサ)の郊外(北東15km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。紀元前9000年頃に狩猟採集民によって建立された、世界最古とされる石造の宗教建築が発見されている。

アナトリアは最も古くから麦を食べてきたと云われており、その理由にアナトリア高原には野生の麦が生えているおり、古代人はそれを採取し食糧にしていたから、とのことの証しか。

その後、今からおよそ1万年前には麦を栽培するようになり農業が誕生、その結果豊かになりメソポタミア文明やエジプト文明が生まれたという。

しかし、ギョベクリ・テペはそういった通説を覆す発見とのことだった。紀元前1万年の頃の神殿と見られているこの遺跡からは、同時代の他の場所で見つかった物とは異なる顔のない人物を模した像や狩猟をしていたことが分かるという。
そこからは、この遺跡は農耕が始まる前の文明にも関わらず巨大なモニュメントを作る技術を持っていたことが分かる。

参照 http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120614/1339621572

トルコ古代遺跡「ギョベクリ・テペ」について書く前に、首と尾の方の首の部分を書いておかないと論理が整然としない。この心境は「古語拾遺」著者、斎部広成の気持ちと同じだ。

「これだけはいっておかないと死にきれない」、~と。斎部広成

日本の古代史、古事記・日本書紀の「記紀」(斎部広成著「古語拾遺」も加えたい)を解読するのに苦労した、とこのブログで心情を吐露した。それで歴史はシルクロードに向かい、そのプロローグは「メソポタミア」に集約された。長い時間、私はそう思って歴史観をつづってきたし、また、世の歴史学術はそれで差し挟む予知はない、という正統的な概念は確立されている。

いったん出来上がった「説」は、ほぼ修正されることなく人々の間に言い伝えられ、それは古代の詩人「ヘロドトス」の吟遊伝承劇のように語り継がれる。
まさにそれは改ざんされることなく脚色はあったにせよ、古代神話は、この近代社会においても、色褪せることがない。また、その古代歴史の言伝えが、ひょんなことから発掘され、にわかに信憑性をまし、それが古代史上で実際にあった出来事として、この現代に実証されることは稀なことではない。この度の トルコ古代遺跡「ギョベクリ・テペ」発掘が良い例だった。

発掘はいまから5年前だからそう古い話しではない。

「アレクサンドロス」東征

紀元前356年にペラで生まれ、20歳で父であるピリッポス2世の王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した、アレクサンドロス。

戦術・戦略の天才であり、少年のごとき純朴な野心を持っていた。戦えば決して負けることがなく、確かな戦略で領域を急速に拡大し、異民族統治においては独創的な方針をとった。彼の業績は征服戦争に成功したことだけにあるのではない。
当時のギリシア人が考える世界の主要部(ギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを一つにつないだ若き『世界征服者』であり、異文化の交流と融合を図る諸政策を実行し、広大な領域にドラクマを流通させることで両替の手間を省いて迅速かつ活発な商取引を実現したことにある。アレクサンドロス以後、世界は一変したのである。また、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。

青年期、アレクサンドロスはプトレマイオスを学友として過ごし、16歳までアリストテレスの教えを受けた。紀元前336年に父王が暗殺されると、彼はその王位を継承するとともに、強大な王国と熟達した軍隊を受け継ぐこととなった。

アレクサンドロスはコリントス同盟の盟主としてマケドニア王位に就いたので、この立場を使い父の意を継いで東方遠征に着手した。紀元前334年、アケメネス朝(ペルシャ帝国)に侵攻し、10年に及ぶ大遠征を開始した。アナトリアの征服後、イッソスの戦いやガウガメラの戦いといった決定的な戦いによって強大なペルシャを打ち破った。そして、ペルシャ帝国の王であるダレイオス3世を破りペルシャ帝国全土を制圧した。その時点で彼の帝国はアドリア海からインダス川にまで及ぶものであった。

紀元前326年、インドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。
紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で崩御。その崩御後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)によって分裂し、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。

アレクサンドロスの征服(ヘレニズム)によって生じた文化伝播とシンクレティズムはギリシア式仏教などに見られる。自分の名前にちなんで20あまりの都市を建設し、中でもエジプトのアレクサンドリアは最も有名である。

アレクサンドロスによるギリシア植民地の支配とそれによるギリシア文化の東方への伝達は古代ギリシアと古代オリエントの文明を融合させ、ヘレニズムと呼ばれる新たな文明の出現をもたらした。この側面は15世紀中盤の東ローマ帝国の文化や1920年代までギリシア語の話者がアナトリア半島中部から遥か東(ポントス人)にまでいたことにも現れている。

アレクサンドロスは古典的な英雄であるアキレウスのように伝説として語り継がれ、ギリシャと非ギリシャ双方の文化における歴史や神話に顕著に登場する。歴史上の軍事指揮官は頻繁にアレクサンドロスと比較され、その業績は今も世界中の軍学校で教えられる。歴史上もっとも影響力のあった人物としてしばしば挙げられる。

アレクサンドロス3世はピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。ピリッポス2世はヘーラクレースを祖とする家系で、オリュンピアスはアキレウスを祖とする家系であったから、ギリシア世界で最大の栄光を持つ両英雄の血筋を引くと考えられ、家系的栄誉はギリシア随一であった。
紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。
アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。アレクサンドロスは「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬するようになる。
また、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。
東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。
ウイキペディア 部分引用

■トルコ古代遺跡「ギョベクリ・テペ」については、「アナトリア考古学研究所」(三笠宮)1985年よりトルコ共和国でカマン・カレホユック遺跡の発掘調査。(会員として勉強講習会参加 筆者)

有為転変13 (2013-11-28 23:16:48~書き起し記事~)

個人の「アイデンティティ」で自国の文化を語れるか、それが問題だ?

このグローバルな世界観で、いま英語を話すのが必須となりつつある。「あるFM番組をきいてたいところ、流暢でなめらかなフランス語を喋っている。二か三フレーズの広告に使うようなツィートだった。英語ならともかくフランス語となると全然理解できない・・・」。まあそれがし一般的だが。

前項で、そう断ったのは、そのためだった。ラジオのディスクジョッキーが語る流暢な英語フランス語、それが即物的に物語っている。
さらには地球規模で展開している政治紛争の、その一つ一つに拘わっているのがアメリカだ。世界最強の軍事力をテコに、他を圧倒し世界経済までコントロールしようとしている。

そうした中のNHK番組、ハーバード大学ケネディ行政大学院・通称ケネディスクールの「ロナルド・ハイフェッツ」教授によるタイトル、「リーダーシップ・白熱教室」がNHKで放送された。かりにそれが上から目線というなら、それ以外のなにものでもない、そんなことだ。

同様のカテゴリーに含まれるオリバー・ストーン監督によるドキュメンタリーテレビ番組は、アメリカの恥部とも言うべき軍事政策を公然と批判暴露し、その論理は元CIA職員のスノーデン氏が告発した情報とシンクロしているようにも見える。
そのような複雑に絡み合った世界情勢の諸条件の中で、自分の足元のスタンスはどこにあるのか、また、なにを拠り所としてセットすればいいのか。その答えを探すには大学教授でも難しい。
なぜ、その答えが見つけられないのか、といえば、問いを繰り出す側のスタンスが全部ことなり、どれ一つとっても同じケースがない、という難問であるからだ。

それを産業革命以来の量産システムのように画一的に量産処理するほうが間違いなのだ。アメリカのやり方がそれに近い。
いずれそれは終焉する、という大方の予想を覆し、いまなおアメリカは健在であり、あらゆる手段とテクノロジーで資本主義世界をリードしている。また、そうでなければ、世界そのものが破綻する、というジレンマは、同盟国間の共通した考え方ではないだろうか。

このサイトにも掲示した「黒船」画像は、イギリスの産業革命を彷彿とさせ、中世ヨーロッパの「ギルド」手工業を連想させる。そうして歴史のページを過去にめくっていくと、スコラ学術に遭遇する。その原点をさらにたどって行くとギリシアの自然科学、哲学があり、そこから著名な歴史上の人物が、ここに書ききれないほど名を連ねる。

それは非常に判りやすく理解するのに、あの手この手の方法論が用意されていた。この話しは前にも触れたが、ギリシアで発展した学術が、この近代現代まで及ぶ天文・哲学・物理・科学世界の礎のなかに、だれがその知識に浴したのか、という問題はあまり検証されない。
その点については、過去再三、このサイトで云ってきたことであり省略するが、ギリシア時代の覇者「アレキサンダー大王」の功績は計り知れない。その歴史上の無二カリスマが不在となった後の、後継者争いが、こんにちまで持続している、と穿った論理を述べると、どこからともなく異論が挿し挟まれるのは承知の上だ。(ヨーロッパ・ユーラシア大陸における東と西の対立) 

大陸ユーラシアの上を彷徨う人間の歴史5000年の愛憎

クノッソス王朝は1900年、イギリスのアーサー・エヴァンズによって発見され、その遺跡は推定紀元前25世紀とされる。1900年にギリシヤのアンティキティラ島の沖合に沈没していた難破船から発見された謎の機械も同じ年代だ。長い眠りから覚めた古代王朝はタイムマシンのように現代に甦り、そして神格化されたと推測できる。神話物語のそのほとんどは紀元前におこったであろう政権交代物語と理解していいだろう。

古代マケドニアは帝国ギリシアの北方片田舎でしかなかった。古代ギリシア民族ドーリア人によって建国された国と伝えられる。その当時20歳の若さで戦乱最中のマケドニアの王位を継承したのがアレクサンドロス3世で後に歴史的人物となったその人である。西欧世界では知名度ナンバーワン。世界歴史の中でも絶大な知名度を持つ「アレクサンドロス3世」の名は度々引用例として引き合いに出される。

精神分析入門の「フロイト」もその著書で紹介している。講演中の話の中(著書口述)、こんな件で書かれてあった。

『歴史学の教授はアレクサンドロス大王の遠征には参加しなかった点では皆さんとまったく同じです。歴史学者は皆さんにアレクサンドロス大王と同時代、あるいは少なくとも問題の事件からそう遠くない時代の著者たちの報告を、すなわちディオドールス、プルタルコス、アリアーノスなどの書をみることをすすめるでしょうし、また保存されている大王の貨幣や肖像の複製を示したりイッソスの戦いを描いたポンペイ出土のモザイクの写真を回覧させることもできるわけです。しかし厳密に言えば、これらの記録のすべて、むかしの人々がアレクサンドロス大王を実在の人物とし、その戦功を事実として信じてきたということを証明するにすぎないのです』。

そうフロイトは語り、古代の偉大なる歴史物語であっても、それは果たして信じられるべきものか、という疑問を投げかける。その問いの真意とは、フロイトの説明する精神分析の信憑性と比較する対象としてアレクサンドロス大王の物語を語ったに過ぎない。 したがって、ここで説明するアレクサンドロス大王の歴史とはいささか趣を異にする。

古代歴史物語は、その昔の伝記に拠ったものが多く、また写本を繰り返すうち、その内容が変化する。さらに長い間隔たった時間を経過すると記述言語の解読不能、原本の一部消失破損など再現不可能な箇所も生じる。したがって過去の歴史というのは、その信憑性を疑われることも多い。
マケドニアはペルシア(イラン)とギリシアに挟まれた地理的位置にあり政治的緊張を強いられていた。紀元前338年カイロネイアの戦いで勝利、翌年の337年全ギリシアを手中に収める。そしてついに次なる戦いを挑む。

紀元前334年アケメネス朝ペルシアに攻め入り、翌年333年イッソスの戦いで勝利する。それは余りにも有名な戦争歴史であり大国ペルシアを破ったことは、今日の歴史にも多大な影響をもたらしたことになる。

この戦いで大王が負けていたとするなら今日の近代科学は違った形になっていたと思われる。大王の東方遠征図を見て判るとおり東方は勿論、地中海沿岸にも強い影響力を誇示していた。その足跡は紀元前5世紀に勃興したギリシア学術が長い時代を経ながら大海の潮流のように蛇行迂回を繰り返しながら世界へと拡散伝播したルートの透視図である。

ギリシア神話と哲学、自然科学、その根源であるクレタ島クノッソス、そして今回の「ギョベクリ・テペ」遺跡の研究記述である。また、それらの歴史遺産が現代に与える影響も考慮し、特筆すべき事項の、ハーバード大学ケネディ行政大学院ケネディスクールのロナルド・ハイフェッツ教授による「リーダーシップ・白熱教室」や、アンティキチラ古代計算機(自動天体観測機)など、そこから垣間見えるクレタ島クノッソス王朝など、我々がこれまで学校で教えられなかった新たな歴史のページを加えながら検証する必要があ。

ときには、フロイトの記述も引用し、「古代の偉大なる歴史物語であっても、それは果たして信じられるべきものか、という疑問を投げかける」ような、さながら犯罪捜査の裏づけを取ることもある。そこから多方面に拡散した学問と文明と画像を交えながら歴史を解説している。 それがこの主題である。

古代文明メソポタミア・ギリシア

紀元前5世紀、ギリシア文明の叡智が現代社会に与えた影響は計り知れない。もっとも有名な「ピタゴラス定理」は現代でも教育の場で必須だ。

いまもっともメディア上に載る言葉「イスラム」とは、いつからイスラムなのか。西暦570年に生まれた「ムハンマド」は610年40歳のときアッラーの啓示を神託、イスラム教の開祖とされる。そこから二派に分裂したのがスンニ派とシーア派だった。シーア派はイスラム教徒少数宗派だがイラン・イラクにおいて国民の半数以上がシーア派とされスンニ派との対立は解決の糸口が見えない。その現代事情とは、まったく一線を画した古代の先進学問国「アラビア文明」は一体どこに消えてしまったのか、という疑問を拭い去ることができない。現在進行形でいまその行方を追っている。その大方が判りかけてきた。さらにその検証が必要だが、おおまか西と東、その宗教対立の構図に根ざす、というところまで近づいた。キリスト対イスラムの宗教対立、そして世界覇権あらそいは、ギリシアからローマ帝国に至り、その時代より営々と繰り返されている。
「12世紀ルネサンス」とは1927年、チャールズ・ハスキンズの著した書物によって欧米で認知された研究成果であり、紀元前ギリシアで開花した人間世界の叡智が、どのような変遷過程で現代社会にもたらされたのか、というワンセクションを担ったのがアラビア文明であることを、それは説明している。
BC5世紀に起こったギリシア文明の叡智は黄金期であり「ピタゴラス定理」より以下、数知れず幾何学・数学がアラビア文明を象徴する学問として現代社会にもたらされているが、その過程は殆ど知られることがない。とくに「ユークリッド幾何学」はアラビア文化圏からもたらされたことに多くの人は知ることがない。その事実が明かしているように現代社会で学習している基礎的学問の多くは、ギリシア文明が育んだ知識をもとに歴史時間を経過しながらアラビア文化圏経由で今の欧米社会へと帰結したという現実を現代歴史はあまり直視しない。そのことは、ある意図的な策略によって、ある方向へと導かれた、と思わせるような痕跡も随所にみられる。

1997年3月の初版本「キリスト教封印の世界史」には次のような記述がある。

「紀元前6世紀には、すでにピタゴラスが地動説を唱えていた。紀元前3世紀にはアリスタルコスが太陽中心説を訴えていたし、エラトステネスが地球の大きさを測定していた。紀元前2世紀にはヒッパルコスが緯度と経度を考案し黄道傾斜を定めていた。だが暗黒時代に入ると、そうした知識は忘れ去られ16世紀になってようやくコペルニクスが再び地動説を唱えるという始末だった」。
そこから読み取れるのは、西洋史でも特に有名な異端審問というキリスト教による科学者たちへに対する淘汰である。また、過去にもキリスト教の優位性を保持するためギリシア時代より伝えられた膨大な数の学術書や文学作品を焚書したのである。
古代エジプト・ギリシアにおいては幾何学が盛んに研究されていた。それは古代社会の生きる知恵であり、大河の氾濫をどのように食い止めるか、そしてそれを灌漑農業に生かせるかが国家形成の糧であった。古代メソポタミアにおいては早くより灌漑技術が発達し、その時代の先進国家であったことは数々の歴史記述で証明されている。
そうした古代オリエントの数学はタレス、ピタゴラスらによって小アジアのイオニア地方、南イタリアへもたらされる。そうして基礎づけられ発展した数学体系は「エウクレイデス」(英名)に因んで、「ユークリッド幾何学」と呼ばれた。古代エジプトのギリシア系哲学史者エウクレイデスの著した「原論」が今日のユークリッド幾何学の基礎となったのである。

ユークリッド幾何学「原論」は定義、公準、公理など、様々な定理を演繹的に導き出す手法で現代数学の原型をなす。2000年間におよび数学の聖典としてその地位は不動である。近代自然科学、古典力学の雄「ニュートン」による「自然哲学の数学的原理」は、この「原論」を手本に書かれた、とも云われる。

ギリシアからビザンチン、シリア文明圏

地中海世界で育まれた数学は時代を経過しながらギリシアへと移行する。そして紀元前3世紀ころから始まるヘレニズム潮流にのりながらアレクサンドリアにおいて展開されるようになる。その研究成果はギリシアからビザンチンへ、やがてシリア文明圏へと移行し、シリア的ヘレニズムの諸科学はアラビア語訳されアラビア文明圏へと迂回の道を辿る。やがてアラビア学術文化の時代が訪れ11世紀ころに、それは黄金期に到達する。そして今日の西欧世界の礎をつくった学問の総ては、このアラビア学術文化を翻訳し「12世紀ルネサンス」を迎えることとなる。そして、いよいよその叡智はラテン語化へと消化されて行く。
「12世紀ルネサンスの中心となったのはカタロニアを含む北東スペインと中央部のトレドを中心とする地域、パレルモを中心とするシチリア島、そして北イタリアなどの地域であった。これらの地域でアラビア語文献やギリシア語文献のラテン語訳が進められた」、とネットサイトに記述した上垣氏は説明している。
また伊東俊太郎氏(12世紀ルネサンス著)によると、「アラビア文明との接触は、実は十二世紀に急に始まったわけではなく、それは十世紀の中葉に遡る。その接触の舞台はカタロニア。現在スペインの北東の端を占めるこの地方は、一時イスラムの勢力圏に入り、後にはバルセロナ伯領として西欧文明圏に属した。」
というように、まさしく西欧とアラビアの接点となった。このようなアラビア文化圏と西欧文化圏が混合した地域には「モサベラ」(アラビア化した人)と称されるアラビア文化に同化したキリスト教徒のスペイン人も数多く存在した。

こうした地域が西欧文明圏に入ったとき、アラビア語とラテン語をともによくした彼らがアラビア文献をラテン訳してアラビアの学術文化を西欧世界に伝える最初の役割を果たした、と伊東氏は解説している。

「ラテン語」はかつてイタリア南部のローマを中心とした地域で使われていた言語でラテン人によって使われていた。それはローマ帝国の公用語として用いられたことにより広範囲に伝播した。なお現在でも一部使われる「ラテン語」は殆ど死語に等しいが、それでも名詞として重用されるには、それなりの訳があったのである。
中世の時代、公式また学術関係の書物は多くラテン語で記され、現在でもラテン語が残っている。生物の種の命名はラテン語を使用する規則になっている。19世紀までのヨーロッパ各国の大学では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。その中世の思想に強い影響を受けていた哲学者、デカルトの著した「哲学原理」(1644)原書はラテン語記述である。

伊東俊太郎著 (12世紀ルネサンス) 参考文献


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