嫉妬深さと愛情深さの境界線

私は嫉妬深い性格だ。

これは、ほぼ私だけが確実に気付いている性格で、普段生きていて周りの人からそう認識されている事はほとんど無いと思う(実際は分からない)。それくらい、ある種超然と、飄々としているように見えていると思う(これも実際には分からない)。

10代の人格形成の時期において、私にとって客観視する事、飄々とする事、は生きてく技術であり、手段だった。そうする事が、自分を守る術だった。問題が多い場所で育つと、子供ながらに私自身が問題になってはいけない、と思い始める。そうしてるうちに、物事を引いて観る事、どんなに辛い状況でも大丈夫な振りをする事、こういった事が得意な性格になっていく。

本当に良くも悪くもなのだが、こういった特性は20代以降も残り続けている。これは特性なので、無くそうとして無くなるものではない。また無くそうとしてはいけないと思う。問題はその使い方だ。自覚して、どう使うかによって、特性は長所にもなるし、短所にもなる。長所と短所は常に表裏一体だからだ。

嫉妬という感情は、一般的にはネガティブで醜い感情と認識される事が多いが、そのすぐ隣には “好き”という感情が密接に関係していると私は感じている。私は嫉妬が自分に湧き上がった時に、その人やその人を取り巻く環境が、 “好き”で “憧れ”で “理想的な自分”だと強く再認識する。男女を問わずそうだ。

幸運なのは、所謂 “社会的に成功してる人”や “一般的に幸せとされる人(例えば結婚して家族を持ってる人)”に対して嫉妬を感じる事が全く無いことだろう。より正確に言うと、人というより、そういったステレオタイプに対してだが。この理由ははっきりしている。私自身が20歳以降、そういった生き方を求めてこなかったからだ。興味が無いものに嫉妬は感じない。私の場合、嫉妬の対象は常に “魅力的な個人”に向けられてきた。もちろん、社会的な成功と、魅力的な個人が重なる事もあるだろう。だが経験上、イコールでは全く無いと思う。重要なのは、あくまでも “わたしが魅力的だと感じる”という点だが。

どんな感情であれ、嫉妬であれ、怒りであれ、それを無くすことは出来ない。出来るのは、それをそのまま認め、受け入れ、自分なりに書き換えたり、諦めたりすること、ではないだろうか。もちろん、それが完全に出来れば仙人だろう。実際には螺旋階段のようになっていて、しかも終わりが無い一生のテーマでもあると思う。全て存在すると分かった上で、諦めること。認めて、 “まぁいっか”と手離すこと。それを重ねていくうちに最初の一文は書き換えられるようになるのでは、とほんの少しだけ期待している。

私は愛情深い性格だ。


#エッセイ #雑感 #バーテンダー #店主 #心理

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