時間と空間の耐久テスト -断定的なものいい-

吉田拓郎の「イメージの詩」が好きだ。

23の僕がいうと歳を誤魔化しているんじゃないかと言われることがあるが正真正銘の23歳です。小さい時から親の運転する車の後部座席でフォークソングやニューミュージックを聴いていたので、この年にしては、70年代とか80年代の歌には親和性がある方だと思っている。幼心にも吉田拓郎のイメージの詩が不思議な雰囲気の曲だとは感じていた。今でもうまく言語化できないが、かなり事物の本質に迫ろうとしているのではないかと感じる。

歌い出しの「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」という歌詞があるが、これはモヤモヤとした何かのど真ん中を見事に射抜いてくれているような歌詞だと思う。最近ふとしたときにこのことをよく考えていて、この世に確たることなんて片手で収まるくらいしかないんじゃないかと結構真剣に思っていた。(特にこれといった根拠なんて無いんだけどグルグルと思考が内省し始めて止まらなくなりそうだったので一度文字にしておきたかった。)古今東西いろんな哲学者がいて色んなことを述べてきたわけだけれども、その哲学者だって今はもう全員死んでるわけで、全く違う対立することを行って論争を起こしていたような高尚な哲学者同士も結局はみんな仲良く同じところに行き着いているのがなんか面白いと思える。

話がそれそうだけど、身の回りに「AはBだから!」みたいな断定的なものいいをする人って結構いませんか。こういう人を僕は思考回数が少ない人なんだろうなぁと思って接しています。(まぁ、めんどくさいから断定的なものいいをしているという横着者であるケースも十分にありますが、、)僕はこの「A=B」の等式が無条件で成立するケースなんてほとんど存在しないのではないかと思います。水は0℃以下で氷になり100℃で沸騰することは皆んな知っていることだけれど、これだって怪しいと思えば怪しいわけです。なぜなら、℃ってなんですかね?温度を表す単位でいつかの時代に誰かが決めた尺度で、それが便利だから広く普及しているだけの話なのです。そもそも「温度を表す」単位といっている時点でそれは温度を指標化しているものなわけで、目の前にある加熱された液体が蒸発したり凍ったりしている現象は存在するのかもしれないけど、それに指標を与えて0℃で凍るであるとか、100℃で蒸発するみたいなことに対しては懐疑的である必要があると思います。

そんなことを考えていくと、「コロナって果たして悪なんだろうか?」と思うこともあります。もちろんたくさんの人間が死んでいるので両手放しに良いものだとはいえないとは思いますけど、逆に両手放しに悪いものだともいえないような気がします。二酸化炭素の排出量が世界的に減少したことは有名な話ですが、これまでなかなか減らなかった二酸化炭素がたった一つの感染症で大幅に減ったわけです。人類はコロナのおかげで二酸化炭素を減らすためには、どのくらいの暮らしをすれば良いかを体感的に教わったとも言えるでしょう。これは、これから先の人類にとってとても大きな財産になるような気がします。(犠牲と報酬の関係で語り始めると話がこじれるのでここではやめておきます)

ここまで書いてきてなんとなく話をまとめてみます。断定的な物言いをされたときには、その言われたことの①空間のスケールと②時間のスケールをぐちゃぐちゃに変えてみて耐久テストをすることが大事なんだと思います。大概のものは今現在という時間のスケールで正しいか、ここという空間のスケールで正しいかのどちらかであることが大半なので、時間と空間の耐久テストを意識して暮らしてみよう思います。

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