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他人とごはんが食べられない!

 ダンジョン飯のアニメ放映が始まった!!
 私は、昨年末の原作の完結に伴い、積んでいた数冊を含め一気に読んでその結末を見届けており、久々にアニメを楽しみにする、という気持ちになっている。OP曲がBUMPだったことも期待を高める要因だった。

 そもそも漫画でもアニメでも文章でも、「ご飯を食べる」という描写が好きだ。かつての自分の創作でも共に食卓を囲む、料理を誰かのために作る、食材を育てる、そういうくだりを盛り込んできた。同じ釜の飯を食うという言葉もあるように、食べること、共に食べる関係に、私は特別さを感じている。

 人間の根源的な欲を満たす行為、人の目に体内(口内)を晒す行為、ほかの生き物を自身のエネルギー源とするため口から摂取するというのは多くの生き物と共通している。生殖などと同じく、本能として避けられない要素が食事である。
 だがそれぞれの味の好み、美味しさの探求、料理に反映される土地や家の伝統、健康のために栄養を管理するという概念、といった人間の築いてきた歴史や個人の歩みが感じられる文化的な側面も存在する。”美味しく”食べるというのは、娯楽としての要素も強く、生きる為というよりは楽しむための愛すべき無駄でもある。
 これらを併せ持つ食事は、生きることそのものとしてしばしば扱われる。必要であり無駄でもある、そのこと自体が愛おしく、私を含めた沢山の人間が食を、食事を愛している。

 ところで私は、他人と食事を共にすることが苦手だ。食事の所作を見られることが気になるというのも一因だが、メニューを選択し、口に運び、咀嚼して、飲み込む、その一連の流れを人目に晒すことを非常に恥ずかしく思ってしまう。
 一見先述した「食事の描写が好きだ」という気持ちと食い違っているようにも見えるかもしれないが、私にとっては食事の時間を共に過ごすのは、自分の本能と人間性を相手の眼前に晒すことと同義で、それによって私という人間を解釈されるのが恐ろしく思っている。それは「食事」を特別に思っているからこそだ。
 職場の歓送迎会、忘年会などからも逃げ続けているし、一部の友人には食事の席が苦手なことを伝えてある。食事というのは交流の場でもあるのは分かっていても、出来たらカフェでお茶を飲む程度で退散したい。これらの食事が重要なものと感じられているが故の弊害に私は長年苦しめられている。

 思えば私の家族は皆、いわゆる”食通”や”グルメ”という種類とは異なるタイプの食べるのが大好きな食いしん坊たちだ。母は料理が好きではないらしいが、棒ラーメンに精肉店の叉焼や自家製の煮卵をそれらしく乗せて出してくれるし、新しい服を買うくらいなら美味しいお店で一食たべる方が良いと言う。それに今でこそ毎日筋トレをして体系維持と健康に努めている父も甘いものが好きで、私が幼い頃は市内のケーキ屋さんにやたら詳しかった。今でも手土産になるような菓子店のリサーチが一番マメなのは父だ。家族旅行の合間には必ずと言っていいほどみんなで長々と道の駅の散策をするうえに、普段も月に一度は母と祖母が市外へ新鮮な卵を買いに出かけてご近所さんの分も含めた何箱もの卵を買ってくる。

 加えて我が家は食にまつわる行事ごとにもかなりマメだ。土用の丑の日の鰻、冬至にかぼちゃ、節分の恵方巻、桃の節句にはちらし寿司と桃カステラ。端午の節句には祖父が好んで鯉菓子を食べていたことも覚えている。お彼岸のぼた餅やおはぎ、1月7日の七草粥。毎年きちんとそれらを食べている。ここまで網羅する家庭はおそらく時代と共に減っているのではないだろうか。

 そういう家庭で育んだ食へ特別な気持ちと、それを人目に晒すことの恥ずかしさみたいなものが丁度思春期を通り過ぎる際に変に膨らんでしまったのだろうというのが私の見解だ。家庭が違えば習慣がまるで違う。少なくとも私の周囲の友人らの家庭とはかなり違うことを私は自覚していて、それらを指摘されたら、人間性を推測されたらどうしようと思わずにはいられなかったのだ。

 先述した通り今でも変わらず、食べることは好きでも共に食事をすることは避ける。その方が楽だと分かってしまったからだ。克服しようとすればタイミングはいくらでもあったものをずるずるとそのままにしてしまった怠惰の結果でもある。いずれどこかのタイミングで観念するのを薄々察しながら、今日もひとりで好きなものを好きなように食べている。
 いつか何も気にせずに家族以外の人と食卓を囲めたらどれだけ嬉しいだろう。食事の時間を気を張らずに楽しめる、それは自分を曝け出しても大丈夫だと信頼している証だ。そう思える相手はきっと私にとって何よりも特別な存在に違いない。

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